TOPへ  SSリスト  <<第五十一話  >>第五十三話



 「無じる真√N53」





 目的の食堂へと近づくにつれてわらわらと群がる人の姿が顕著になっていく。
 何故か、皆一様ににずらりと並び長蛇の列を作っている。
 普段見かけることのない光景に典韋は首を傾げそうになりながらも目的地へ向けてひたすらに駆け続ける。
 ちらりと伺うとどれも兵士のようだ。見た感じだと曹操軍というよりは元張繍軍らしい。
 いろいろと疑問に思いながら典韋が店へ辿り着いたとき、ようやく異常な群れを成している理由がわかった。この香辛堂の店内から順番待ちの客が溢れ、敷地を飛び出すほどに行列ができていたのだ。
 店内に入ってみればぎゅうぎゅうに詰まった人、人、人。
 商人が典韋に告げたとおり異常な光景が広がっている。普段から人気のある店だが、ここまで繁盛していることは典韋がこの街に来てから一度たりとも無かったはずである。
 がやがやと騒々しさに包まれている室内に眼を白黒させながらも典は厨房へと颯爽と向かう。
 そこには汗も拭わずに延々と調理に励んでいる店主の姿があった。頑固一徹の店主は普段から他人の力を借りようとしない。例外と言えば典韋くらいのものだろう。
 案の定、店主は一人きりでこの膨大な注文と向かい合っていたようだ。
「親父さん!」
「おお、嬢ちゃん。どうした?」
 振り返ることもせずに応答する店主。店に客がいる以上、何よりもそちらを優先する……そこに典韋は料理人としての彼がよく現れているように思いつつ店主へと近づくように歩を踏み出す。
「どうしたも何も、一体なんなんですかこの状況は」
「俺にもわからんよ。日が沈む頃になって急にぞろぞろと団体で訊ねてきやがってな。いや参った……ぜ」
 だらだらと汗を流し続けながらも大鍋を振るっていた店主が不意にぐらりと身体を揺らすと、がくりと膝から崩れ落ちるようにその場にへたり込んでしまう。
 急なことに取り乱しがちに近寄ると典韋は傍で膝を折って顔をのぞき込む。
「ど、どうしたんですか!」
 そんな彼女にゆっくりと顔を向けると店主は苦しそうな呼吸混じりに空笑いを浮かべる。
「いやぁ、ちょっと熱にやられちまったみたいだ……」
「もしかして、ずっと休憩無しで……しかも、火力がいる料理ばかり?」
「……あ、ああ。普段と比べものにならなくてな。調整が上手くいかなかったようだ」
 厨房は火を扱うゆえに非常に室温が高まりやすい。そして、だからこそ厨房で調理を行う人間としては何らかの対策を講じるようにするものなのだ。
(だけど、急な事で普段通りのままだったんだ……)
 恐らくは混んだ場合に取るべき対応をする間もないほどに多忙だったのだろう。
 せわしなく胸を上下させている店主に何とも言えない気持ちになりながらも典韋はここに来た意味をより強く見いだす。
「わかりました。後は、私がやりますので親父さんは休んでてください」
 そう言って典韋は立ち上がろうとするが腕を大きな手に掴まれる。
 破れと再生を繰り返すことでごつごつと硬くなった皮膚。そんな料理人らしい掌に動きを制された典韋は腰を屈めたような中途半端な姿勢で止まってしまう。
「おいおい、ここは俺の店だぜ。俺が厨房を空けるのは……」
「それで倒れたりして長期にわたって店が開けないようなことになってしまったら元も子もないじゃないですか!」
 渋る店主に典韋はくりっとして普段ならその佇まいと相まって可愛らしさを促進する瞳を鋭くして強めに意見をぶつける。
 強情がウリでもある店主だが、流石に熱にやられて弱っているのだろう。瞼をおろし典韋の熱意を噛みしめるようにして唸るとゆっくりと首を縦に振る。
「ちっ、仕方ねえ……そう言われちまったら俺も断れねえ。任せちまってもいいか?」
「はい!」
 快活な返事をすると、典韋は安心させるように店主に笑いかけて今度こそすっと立ち上がる。
 彼女はそれまで黙って二人の様子を見守っていた商人の方を向いて店主を奥へと運んでもらうよう頼む。
 よろける店主に肩を貸す商人が奥へと姿を消すのを見送ると、典韋はここまで持ってきた伝磁葉々を裏口のところに邪魔にならないよう据え置き、先程店主が落としてしまった調理途中で駄目になってしまった料理を片付ける。
 最低限の処理をささっと済ませると典韋は厨房には似合わぬほど厳つい武装も解いていく。
「……ふぅ。さて、頑張らなきゃ」
 両の手で拳を握ると典韋は前掛けをして改めて厨房に立つ。
 そこへ、店主を運び終えて戻ってきた商人が姿を見せる。
 商人は、典韋と店主のやり取りを見ていて何か力になりたいと思ったということで「あっしも手伝いやしょう」と注文取りを申し出てくれた。助力に感謝しつつ典韋は戦地を踏みしめ戦闘を開始するのだった。
「激辛麻婆豆腐一丁!」
「はい、激辛麻婆豆腐ですね!」
 すっかり店員と化した商人の声に典韋は名一杯の大声を張り上げる。
「極辛麻婆豆腐三丁!」
「はいー!」
 典韋は鍋を振るい餡を作ったりと調理を順調に済ませていく。
 だが、注文は重なる一方で流石に腕があっても上手く捌ききれない。手を休める暇もないほどに慌ただしく典韋は調理を続けるしかなかった。
「麻婆豆腐!」
「はいぃぃぃぃぃ!」
 まさに目も回るほどの忙しさ。
 熱気もあってか典韋の瑞々しい肌からは汗が噴き出ている。店主同様、それを拭い去る余裕もなく典韋は延々と麻婆豆腐を作り続ける。
(というか、なんでみんな麻婆豆腐なのー!!)
 人知れず典韋は心の中で悲鳴を上げるがそんな暇すら現状は与えてくれない。
「麻婆豆腐!」
「はぁぁぁあい!」
 半ばやけになった典韋の声が厨房に響き渡るのだった。

 †

 一糸まとわぬ裸体を名品のように鑑賞しながら彼女は書類に目を通す。
 横たわる女体はその特徴的な長い黒髪を汗ばんだ肩に纏わり付かせたままにしている。水分を得た髪は艶っぽさを帯びてその黒色からは一層の色香が感じられる。
 白い肌は熱を帯びたため赤みを帯びて火照りを露わにし、玉のような汗があらゆる箇所に浮かび出ている。
「ふむ、堵陽にまだ張繍と何かしらの繋がりを持っていそうな者がいるわね。これはすぐに配属を変更すべきか……それとも連携補強に努めさせるかね」
 未だ奔湍のような呼吸に合わせるように起伏する夏侯惇のおっぱい。そのぷるんとした柔らかそうな動きに曹操は小さく舌打ちをして再度書類へ目を落とす。
「まだまだ運行のための整備も必要か……課題は山積みね」
「……ふぅ……んっ、華琳さま?」
 今まで閉じられていた瞼を上げた瞳を瞬かせながら夏侯惇が曹操を見る。
「何かしら? 春蘭」
「いえ、なんでもありません」
「そう。疲れたでしょ? もう少しゆっくり寝ていなさい」
「……華琳さまは?」
 些とばかし上体を起こすと夏侯惇は普段の鋭さも消えて蕩けてしまっている眼を瞬かせて流し目を送ってくる。
 その動きによって夏侯惇の首筋にじある雫がすっと彼女の谷間に滑り落ちて姿をくらます。
 曹操は上着のみを纏っただけの裸体、その腿を台座として手の中に広げている書類に瞳を凝らしたまま小さく笑みを造り声だけで返す。
「私はまだやることがあるのよ。もう少し待ってなさい。端直に命令を守れたらご褒美をあげてもよいわ」
「は、はい!」
 がばっと身体を起こした夏侯惇が瞳をキラキラと玉石のように輝かせながらぶんぶんと首を縦に振る。
「そう。聞き分けが良い子は好きよ」
「華琳さま……ふ、ふへへ」
 口元をだらしなく弛緩させて悦に浸る夏侯惇を瞥見すると曹操は再び目つきを真剣なものとして書類へと目を落としていく。
「やはり淯水(イクスイ)の辺りはもう少し手を加えてもいいわね……」
「ご褒美かぁ……、一体何をして……むっ!?」
「春蘭、どうしたの?」
 曹操は急に声を張り上げた夏侯惇に首を傾げつつ、一拍子遅れた形で彼女が凝視し続けている窓の方へと視線を向けてみる。
 暗闇に覆われた外の風景は部屋の灯りの反作用によって一層深遠なるものとなっている。
「何か見えたの?」
 窓から視線を夏侯惇に向けて訊ねる。
「ええ。そんな気がしたのですが……むむぅ?」夏侯惇は不思議そうに首を捻る。
「どちらにしても外には警備兵も流琉もいるから大丈夫よ」
 張繍も敷地の外を城郭あたりを中心に警備を担当しているはずだ。そのためにわざわざ張繍と気心の知れた兵を幾分かそちらに裂いてある。
 もちろん、敷地内には曹操の部下のみしか配していないわけだが。
 曹操は厳重な警戒もさることながらそれ以上に信頼の置けるもののおかげで不安などまったく感じていない。それを証明するように彼女は普段と寸分違わぬ含みのある笑みで夏侯惇を見やる。
「それに……たとえ何かあったとしても貴女がいるもの。そうよね?」
「そ、それはもちろんです! この夏侯元譲、華琳さまの盾となり刃となるは至極当然のこと」
 曹操の言葉に胸を張って応える夏侯惇。その体勢に応じて曹操軍の中でも最大級と言えるほどの大きさを誇るよく引き締まった果肉がぎっしりと詰まっている実がぶるんと壮大に撥ねる。
 夏侯惇の一部が見せる尊大な動きに一瞬だけイラッとしつつも曹操は窓を再度一瞥しすぐに目をそらす。
 その時、視線の隅で外の黒さを僅かに薄めている松明の炎が僅かに揺れているような気がした。
「風が強くなってきたのかしら?」

 †

 典韋は灯りもすっかりなくなり数歩先も伺い知れないほど暗くなった夜道を一人走っていた。腕は力の限り振り抜き、脚は大地を踏み込んで一刻も早く前へその小さな身体を押し出そうとする。
 大量の注文と厨房を覆っていた熱気による疲労が典韋の身体を徐々に蝕んでいく。だが、そんなことなど関係ないほどに彼女は先へ向かうことに集中している。
「一体、どうなってるの?」
 普段手伝いをするときと比べて客の居座る時間がこの日は非常に長かった。おかげで店じまいする頃には月も西方へと大きく傾いていた。
 その時になって更におかしな事に典韋は気がついた。彼女が愛用している得物――伝磁葉々(でんじようよう)がいつの間にか姿をくらましていたのだ。
 身の回りにまで異変が迫り始めている。それを直に実感してしまった典韋は急いで曹操の元へ戻ることを決め、商人に店主の世話と店の売り上げの会計など残り仕事を任せて転がるようにして出てきたのである。
「……華琳さま。大丈夫かな?」
 典韋は嫌に早い鼓動を打つ小さな胸をこれまた小柄な掌でぎゅっと握りしめる。
 宵闇が典韋の不安を煽り続ける。
「でも、春蘭さまがいるもの。きっと大丈夫のはずだよね」
 そう自分に言い聞かせるが、典韋の胸騒ぎは収まるどころか一層激しくなっていく。
 空の月は更に降下を進めている。
 そうして時が過ぎゆくことすらも不安を掻き立てる材料になる中、典韋は走り続ける。
「……これは?」
 敷地に近づくにつれて鼻を突く鉄さびのような匂い。
 典韋は違和感にぴくりと眉を顰める。
 下肢に込めた力をそっと緩めると彼女は足音を忍ばせてこっそりと歩を進める。
 そろそろと進みゆく暗闇の中、地に横たわっている物体が彼女の瞳にかすかに映り込む。
「嘘……」
 思わず掌で口を覆う。
 胸の中で淀み出した重みが身体中に纏わりついて離れない疲労感の増量を典韋に今更にして気付かせる。
 そこにあったのは、人の身体……見覚えのある兵士だった。
 迷う典韋を仲間たちと共に笑顔で見送ってくれた人。
 微笑みが浮かんでいたはずの顔は青白く。
 鍛えられた肉体は微塵も動くことなく。
 口元からは一切の呼吸もなく。
 それは紛うことなき絶息。
「そんな……はっ!? か、華琳さま!」
 主君の危機は最早疑う所など無い。そう確信すると典韋は近くに転がっている槍を拾い駆け出す。
 途中、何体もの死体が典韋の視界を過ぎる。
 本来の警備兵ほどに数はない。まだ絶命していないのか、はたまた既に抜け殻となった肉体をどこかで処分されてしまった後なのか……。
 唾液がごくりと音を立てながら喉を通る。典韋は見つけた兵士の槍をことごとく抱え込んでいく。彼らの無念すらも共に連れて行くように。
 門をくぐり曹操らがいるはずの方角へと向かおうとする典韋の前に複数の影が立ちふさがる。
「……邪魔をするのなら容赦はしませんよ?」
 影は一瞬だけ後ずさりするが、完全に怯んではいない。
「わかりました。典韋、参ります!」
 じゃりっという音が足下でする時にはもう、彼女の姿はそこにはない。
 手にした槍による横払いの一撃で敵は薙ぎ払われる。
 よろめく者、踏ん張りをきかせる者、倒れる者。それぞれの反応があるが関係ない。
「はあっ!」
 大きく振りかぶり一気に直線の軌道を辿りながら流下するように綺麗に滑降させる。
 大地が大きく揺れるほどに衝撃が走る。
 先ほど凌いだ者たちも耐えきれず座り込む。
 典韋は自分の力に耐えきれず折れた槍を捨て、新たな一本に持ち替える。
 普段の得物と異なるがために、典韋は勝手の違いによる僅かなズレを感じる。だが、それでも十分戦えることを彼女は常時行っている訓練を思い出すことで自分に納得させ槍をしっかりと手に取る。
「ふっ!」
 呼吸のごとく自然に典韋は槍を動かしていく。
 辺りに紅い雨が降り注ぐ。
 一瞬の悲鳴と獣のような咆哮のみが場を支配していく。
 麻婆豆腐を彼女の親友が完食する程度の時間で典韋以外立っている者はいなくなっていた。
「はぁ……はぁ……早く、行かなきゃ」
 一戦交えただけではあり得ないはずの倦怠感が典韋の身体の隅々まで広がっていく。
 それでも彼女は向かわねばならない。
 護るべき人のいる場所へ。

 †

 曹操が異変に気がついたのは外の音が耳に届いたためだった。
 それは些細なこと、遠くで草木が揺れる音。恐らくは夜行性の生物が急な移動を開始したためだろう。
 詰まるところ、それは何者かが動いたということ、この時間夜警でもそのような音を立てるなど考えられない。
 彼女はすぐさま夏侯惇に着衣を命じて自らも外に出られる状態にした。
 まさにその時である。敷地内から忍ばせるように微細な足音がほんの僅かに聞こえたのは。
「春蘭」
「は! 様子を見て参ります」
 そう言うと夏侯惇は外へと飛び出していった。その勢いの良さに灯りがゆらゆらと揺れている。
「まさかとは思うが……」
 張繍の瞳に見た邪な色を見抜きながらそこに不穏な思惑が含まれていたと見抜けなかった自らの不甲斐なさに曹操は舌打ちする。
 曹操はさっと立ち上がると書類の束をこうこうと明るく燃えている火へと近づける。
 ちりちりと始まり徐々にその姿を失っていく書類。
 曹操は青みがかった瞳で、燃やす対象を得て勢い増した炎をじっと見つめる。
「全て諳んじた……我が頭あれば最早必要なし」
 数々の兵法書を始め多くの書物をその頭脳に刻み込んできた曹操からすればこの程度の書類の束を覚えるなど容易いこと。
 彼女は脳内にあるものと同じ書類を全て処分すると扉へと歩み行く。その歩調は、もし見ている者がいたとしてもけして狼狽を感じることのないものだった。
 曹操は静かに自室を後にすると、暗がりの廊下を悠然とした姿勢で進み行く。
 行かねばならぬ所がある、だからこそ彼女は迷うことなく進む。
 迫り来る圧迫感を背に感じながら曹操はその部屋へと入っていく。
「…………」
「こんな状態にあってなお、意識は戻っていないのね」
 寝台で横になったままの郭嘉を見下ろす。その稟とした瞳は閉じられ、先程まで紅くなっていた鼻周辺も赤黒い液体がしっかりと拭き取られていて綺麗になっている。
 短く呼吸をすると曹操は彼女の細い腰から腋に書けて腕を回しそっと抱え上げる。小柄な曹操には幾分負担が大きいがそれでも文官一人くらいならば運ぶことはできる。
 この危急存亡のときに曹操はなおも表情を強張らせずありのままでいる。
「まさか、貴女の腰元にじっくりと触れるのがこのような時とは……思いもしなかったわ」
 再び廊下に出たとき、出入り口の方から喚声が聞こえ始めていた。
「今は、まず馬ね……」
 曹操は冷静に考える。恐らくは用意周到だったはずであり、警備兵を期待することはできない。
 ならば、まずは引き連れることができるだけの麾下と共にこの地より抜け出でなければならないと彼女はこれまでの間に判断していた。
 郭嘉を引きずりながら曹操は更に頭を働かせていく。

 †

 典韋が駆けつけたときには既に建物の内部にまで武装した兵士たちが入りこみ始めていた。
 どれも曹操が連れてきた兵ではない。
 何せ、ここに来るまでにそのほとんどを物言わぬ存在として目撃してきたのだ。
 恐らくは残存しているのは掻き集めれば数十から百に届くかどうか程度だろう。
「春蘭さま、華琳さま……」
 典韋の前髪をあげて大きく露出している額を汗が伝う。胸に去来する不安までもが加わり彼女の内部は出所不明の悲鳴を上げ始めていた。
 槍を持つ手に力を込める。
(伝磁葉々さえあれば……)
 何者かに盗まれた得物。間違いなくこの騒動と関連している。だからこそ一層、自らの不注意が悔やまれる。
「……ダメダメ」
 頭を振って典韋は気持ちを切り替える。
 典韋は自分の存在に気がつき続々と迫り来る敵兵を薙ぎ払っていく。
「邪魔をしないで!」
 飛び掛かる蝗を撥ね除けるように群がる敵を地に伏せさせていく。
 普段と違う得物のせいか異常な調理の影響か、腕や肩への負荷が強まりを見せる。
 どこから現れたのか続々と襲いかかる敵。
 払っても払っても減ったように思えない。
 心理的な面にも及び始める疲労感は彼女を弱めていく。
「まだまだぁ!」
 気合いを込めると、今一度大地を踏みしめしっかりと仁王立ちして倒すべき敵を睨み付ける。
 建物の内部から音が聞こえる。
 悲鳴や怒号が鳴り響く。
 少なくとも悲鳴が夏侯惇のものでも曹操のものでもないことに典韋は安堵の息を吐く。
 いち早く合流しようと邪魔者を退いていく。
 建物へと差し掛かった典韋の前に見覚えのある武器を持った人影が現れる。
「あなただったんですね……私の伝磁葉々を盗んだのは」
 目の前で典韋の大切な得物を投げ捨てる人物を睨み付けながら間合いを計る。
 互いに目をそらすことなくじっと見つめ合う。
 相手は何を得物としているかがわからない。それが典韋に一層の緊張を与える。
「いきます!」
 かけ声と共に典韋は相手へと向かって飛び出した。

 †

 飛び散る血潮。
 刃にこびりつく血糊。
 骨が折れ、肉が避ける音が辺りを埋め尽くす。
「がぁぁぁぁっ!」
 全て獣のようなうなり声を上げて夏侯惇が張繍軍の兵を斬り伏せることによって起こる音だった。
 先ほどから何十人と打ち倒してきたがきりがない。
 だが、この一線を譲る気など彼女にはさらさらない。
「どうしたぁ! この七星餓狼の錆となることを恐れぬのならばかかってこい!」
 暗闇の中、不思議とぎらりとした輝きを帯びているような錯覚を覚えさせる刃、その所々は赤黒く染まってまがまがしさすら感じさせる。
 夏侯惇の声に怯みそうな兵を一人の将が叱咤する。
 その顔には夏侯惇は見覚えがあった。彼女自身が平伏させた相手、そして曹操に臣下の礼を取ったはずの将。
 その者こそが裏切りの首謀者。
「おのれぇ……張繍! 貴様ぁ!」
 一瞬で何歩分もの距離を詰めるように飛び掛かるが、間に兵が何人も入りこみその刃は謀反者には届かない。
「邪魔立てするなぁ! 雑兵どもが」
 吐き捨てるようにそう叫ぶと夏侯惇は自分を取り囲むようにして円状に並んでいる敵兵の頸を、腕を、足を、肉体を切り裂いていく。
 倒れていく兵の向こうに張繍の姿を見つけるがまだ壁がある。
「くそっ、目障りな……」
 居並ぶ敵兵の群れを睨み付けながら夏侯惇は上段の構えを取る。
 夏侯惇は己の任を全うすべく狙うべき的の数々を見据える。
「我が剣の意味、それは覇王曹孟徳の道を切り開くことなり!」
 その怒声と共に夏侯惇は一気に突っ込んでいく。
「はぁぁぁぁぁっ!」
 夏侯元譲、その武は天に聞こえしもの。そう誰しもが知ることになる脅威を張繍の配下たちは誰よりも早く、知ることとなる。

 †

 豪槍による一撃が相手の姿勢を崩す。そのまま均衡を保てなくなった両脚から崩れどさっと仰向けに倒れる。
 その様子を見届ける彼女の口からは荒い息が漏れ、首筋には汗が滴っている。
 とても常人離れした力があるとは思えぬ細腕で汗を拭うと典韋はふっと息を吐き本来の得物へ手を伸ばす。
「流石に厳しいかな……」
 既に二桁は余裕で超えている討ち取った敵兵たち。
 それは同時に典韋の消耗度合いにも直結している。
 肉体的にはさほどだが、内面的な部分には様々な影響が出ている。身体的には問題ないはずなのに脚が重く腕を動かすのが妙に気怠い。
 それでも典韋はその胸に伝磁葉々を抱えると入り口を通り先へと駆け出す。
 建物内部を進んでいくと、むごたらしい姿と化した張繍直属の兵が所構わず捨てられていた。
「全部春蘭さまがやったのかな……」
 視界の隅を流れていく死屍累々。
 どれも見事なまでに綺麗な斬撃の跡が残っている。
 恐らくは夏侯惇の七星餓狼によって付けられたものだろう。
「でも、奥に続いてるってことは……大変!」
 間違いなく夏侯惇が圧され気味か、もしくは何か良からぬことが発生したかのどちらかだ。
 典韋は体内から響き出る悲鳴を堪えながら馳走する。
 いくつもの角を曲がっては真っ直ぐ進む。直進しては右折、直進しては左折と繰り返す。
 並ぶ死体と夥しい血の跡を道しるべとして典韋はひたすらに狂奔するように突き進む。
 ついには人垣を見つけることに成功する。
「いた! あれだ」
 典韋は一度深呼吸すると伝磁葉々を構え、群れに向かって一気に投げ放つ。
「ぐぁぁぁっ」
「な、何だぁ!」
 背後から襲撃を受けた兵士たちが混乱と痛みに哭声を挙げて倒れたり吹き飛ばされたりと阿鼻叫喚の相を呈している。
「華琳さま! 春蘭さま!」
 小柄ゆえ、敵兵の群れから探し人を見つけることができない典韋は必死に二人の真名を呼号する。
 まるで彼女の声に呼応するかのようにして反対側で数人の敵兵が吹き飛ぶ。
「流琉! 来たのか!」
「はい! 今なんとかそちらに向かいます」
 夏侯惇の叫びを聞き、典韋の手に一層の力が籠もる。
 伝磁葉々を縦横無尽に振り回して相手を蹴散らしていく。
 その時だった、一気に突き抜けてくる影がある。それこそまさに夏侯惇と君主曹操。
 曹操と彼女が抱えている郭嘉を中心とするようにして夏侯惇を前、合流したらしい兵士に残りを囲わせて典韋の方へと向かってくる。
「流琉! 道を空けなさい! このまま突き抜ける」
「は、はい!」
 急に命じられて慌てつつも典韋は曹操らと自分の間にいる敵兵を追い払っていく。
 そうして瞬刻の間だけだが一本の道が完成し、夏侯惇らが合流してくる。
「よくぞ、来たな流琉!」
「い、いえ! 元々は――」
「徒話は後よ。すぐにここを出る。既に数人程、厩舎に向かわせてあるわ。すぐに撤兵を計る」
 狼狽と妙な疲労感とで口が上手く回らない典韋の言葉を遮ると曹操は先を指し示す。
「御意!」
 夏侯惇が追撃をかけてくる敵兵を、典韋が前方の警戒をする形をとり集団は前進していく。
 上手く夏侯惇が追っ手の足を遅らせてくれたおかげで典韋はなんとか出口までの道を確保に成功し、曹操軍は無事出入り口へと辿り着こうとする。
 まもなく出口。追っ手は何故か内部にばかり押し寄せていて、外にいるのは既に典韋が片付けた物しかなくなっていた。
(大丈夫、まず一つ切り抜けた)
 そんな考えが脳裏を掠めたためか、出口に差し掛かったところで典韋はのしかかるように彼女に纏わり付いていた熱や疲労感によって僅かに気を持っていかれてしまう。
 朦朧とする視界。
 僅かに力が抜けていきそうになる全身。
 耳にかすかに聞こえる風を切る音。
「流琉っ!」
 強く呼びかける声に我に返った典韋が何とか鈍くなっている意識を持って周囲を確認しようとした瞬間。
 耳障りな雑音が彼女の耳に届く。
 それは固さと柔らかさが合わさったものが裂かれる不快な音。
「……え?」
 驚いて視線を向ける。
 先ほど倒したと思っていた伝磁葉々の盗人がこちらを見ている。
 そのことに気付くのと同時に典韋は全身の毛が一気に逆立ち、そして刹那のうちに血の気がさっと引いていくのを感じた。また同時に、彼女の瞳は真冬の高山に張った水たまりのように凍り付き表面上は微動だにしなくなってしまう。
 典韋の目に映り込む光景がゆっくりとしたものになる。
 ――何?
 赤黒さが重みを感じさせる液体。
 ――嫌!
 止めどなく溢れる熱いソレはだらだらと地面に落ち徐々に広がりをみせる。
 ――夢?
 突き立った矢が抉っていた。無機質な鏃が深々と刺さっていた。
 ……嘘。
 不思議なことにいつの間にか静寂が場を包み込みこんでいた。
 そんな中でも月だけは変わることなく大地を青々とした冷たい光で照らし続けている。




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