TOPへ  SSリスト  <<第五十八話  >>第六十話



 「無じる真√N59」




 その日、彼女は久しぶりに仕事が休みだった。軍の中枢を務める人物及び有能な武官と文官がいなくなった影響で膨大な量と化した書類を捌いたり、軍の演習を行ったりとせわしない日々を送る中にできたささやかな休息である。
 せっかくなので午前中は街で買い物、午後は自室でのんびり凄そうと予定を立てた。
 昼、満足いく買い物ができたことを喜びながら城へと戻ってきた彼女は自室にてまさに自分だけの時間を楽しもうとしていた。
 寝台に腰掛けた少女は、遙か西にある羅馬などの存在する地域で知られる魔女が被っていそうな帽子を手で抑えながら寝台の下へと手を入れていく。
「ん……あ、あれ? 確か、この辺に……」
 手をごそごそと動かしていくが目的のモノの感触が一切してこない。
 一度上体を起こすと彼女は寝台から降りて床に膝を突く。そのまま這いつくばるようにして寝台の下にある隙間をのぞき込んでみるがやはり何も無い。
「……あ、あれ? そんな……確かにここにいれたはずなのに……ど、どこにいっちゃったんだろう」
 あわあわと慌てふためきながら少女は頭を抱える。動揺する心に合わせるように彼女の両側頭部から垂れている馬の尻尾のように結った藤紫の髪の束が小柄な身体の傍で激しく踊り出す。
「あわわわわー、ど、どこー、どこいっちゃったのー」
 必至に寝台の下で手を這わせたり、本などを仕舞い込んである棚を漁ってみたりするが結局、見つかることはなかった。
「ど、どうしよう……」
 途方に暮れることすら忘れる程に、何がどうなっているのかわからず混乱する頭。それでは駄目だと判断し、彼女は一度机へ向かうことにする。
 彼女は椅子に腰を落ち着けながら深呼吸をして心を落ち着けようとする。
 その時、何げなく目を向けた机上に見慣れた包みが置いてあるのに気がついた。
「……ま、まさか」
 ごくりと唾を飲み込むと少女はゆっくりとした動作でその包みを開け、中身を取り出す。
 恐る恐るそれを手に取り、視線を巡らせていく。
「……や、やっぱり!」
 その丸くてくりっとした瞳には、まぎれもなく彼女……鳳統が探していた艶本『艶技大全集』が映っていた。
「な、なんでぇぇぇー!」
 思わず小さいながらも悲鳴を上げる鳳統。丁度、そんな彼女の耳に扉を叩く音が聞こえてきた。
「あの、雛里ちゃんいらっしゃいますか?」
「……あ、はい。あ、あわわわ、ちょ、ちょっと待ってくださーい」
 艶本を手にしたまま彼女は慌ただしく部屋中を見渡す。どこかに隠さねばとは思うのだが突然の事だと頭が上手く回らない。
 丸めて帽子の中へ隠してみようと試みたりもしたが結局寝台の下へ戻すことにし、鳳統は急いで扉へとかけよりゆっくりと開いていく。
「ど、どうぞ……」
「こんにちは、雛里ちゃん」
「お邪魔しますねー」
 開けた先で待っていたのは、先ほどの声の主である董卓だけではなかった。その隣には朗らかな笑みを浮かべながら小さく手を振る女性がいた。
「……な、七乃さんもいらしたんですね」
「あら? もしかして、お邪魔でしたか?」
「いえ。あの……美羽ちゃんは?」
 珍しいことに本来ならば張勲と一緒にいるはずの少女の姿がない。どこかに隠れているのだろうかと辺りに視線を巡らすが見つからない。
「ああ、美羽さまですか。なんでも、お嬢さま曰く、今日のお昼寝は一人で寝るのじゃー、だそうです」
「……大丈夫なんですか?」
「さあ? でも、起きて慌てふためく美羽さまも素敵じゃありませんか」
「……え、ええと」
「え、えっと……あ、あはは。美羽ちゃん……本当に大丈夫ですかね」
 流石に董卓も苦笑を浮かべている。鳳統からしても袁術が目を覚ましたとき、その傍に張勲がいなかったら、一体どのような反応をするのか想像に難くない。
「まあまあ、美羽さまのことは後のお楽しみってことで」
「……ま、まあ。立ち話もなんですので、どうぞ」
 にこにこと笑う張勲に曖昧に頷きながら鳳統は二人を部屋へと招き入れる。
 そのまま二人を席に着かせると、鳳統も継いで椅子へと腰を下ろすし、一度咳払いをして喉の調子を整えると、二人へ質問をする。
「えっと、それで、一体なんの用でしょうか?」
「そのね……あの……」
「実はですねー、雛里ちゃんの持ってる艶本を見せてもらいたいなーなんて思っちゃいまして」
 赤く染まる頬を両手で抑えて俯く董卓に代わるようにして張勲がさらっと要件を告げる。
「え? え? え、えっと……」
「いえ、先程、お昼寝に入った美羽さまに部屋から追い出されてしまったんですけどね、そこで月ちゃんに会いまして。詳しく話を聞いてみれば艶本を見せてもらいに行くと教えてもらったんです。それで、何か面白そうだったのでついてきちゃいました。てへ」
「へう……」
 張勲の言葉に董卓は恥ずかしそうに縮こまってしまう。代わりに張勲が人差し指を立てながら「んー?」と考えるような素振りを取る。
「確か、そういうの持っていますよね? 雛里ちゃんは」
「あわわ、そ、そんな本持ってません……」
「ええー、でも、あそこの寝台の下とか……隠してますよねえ?」
「……な、なんでそれを!?」
 離ればなれとなった一人を除き、誰も知らないはずの隠し場所を当てられて鳳統の心臓がどくんと一際大きく脈打つ。
「いえ、ついさっき……朝なんですけどね。美羽さまとこちらにお邪魔させていただいたんですが、雛里ちゃんはお留守だったようなので、ご主人様に教わった、めもとかいうのを残していこうとしたんです。そしたらお嬢さまってば転んじゃいまして」
「大丈夫だったんですか?」
「ええ。顔面を強かに打ち付けたようですけど、特にお怪我もありませんでしたので恐らくは大丈夫かと。あ、それでですね、その時、寝台の下がちょうど、美羽さまの視界に入ったようで……」
「……あわ、あわわわわ」
 嫌な予感が血流にのって鳳統の全身を駆け巡り、同時に顔から血の気が引いていく。
「その時、美羽さまが取り出したのが……確か『艶技大全集』とかなんとかっていう技とも業ともいえることが満載の本でして」
「あ、あの……それって、やっぱり」
 董卓がおどおどしつつも興味津々な様子で張勲を見つめている。
「ええ。艶本でしたよ」
「はぅぅ……な、七乃さん……その、見たんですか?」
「見ましたよ。あ、でも、お嬢さまが赤くなったお顔をさすりながら、もう帰るのじゃー、って叫んで部屋を出ていかれましたので、じっくりとは読めませんでしたけどね」
「そ、そうですか」
 張勲の答えを聞いて本の中身を全て見られたわけではないとわかり鳳統は安堵のため息を吐く。
「あれ? そういえば、そのとき机の上に置いておいたんでしたっけ。忘れてましたー」
「……あっ」
 頭を掻きながらてへっと笑う張勲を見て、鳳統の脳裏を先ほど机にあった艶本が過ぎる。
 同時に、背中につうっと冷たいものが走り落ちていく。
「ま、そういったわけなので、雛里ちゃんが持ってるのは私知ってるんですよぅ」
「……うう、もう誤魔化せませんね」
 がっくりと肩を落とすと鳳統はしぶしぶと寝台の下から包みを取り出す。
「あ、そこですね。そうそう……それに入ってましたね」
「……あの、一々納得しないでください」
 張勲が相づちを打つ度に彼女に見られてしまったことを実感させられるようで鳳統は気恥ずかしさで溶けてしまいそうになる。
「あの、雛里ちゃん。見せて貰ってもいいんですか?」
「……はい、いいですよ。どうぞ、月ちゃん」
 そう言うと帽子のつばを持つのとは逆の手で『艶技大全集』を机の上に開く。
「へう……は、はじめからすごいですね」
「やっぱり、雛里ちゃんのこれくしょんはそんじょそこらとは格が違いますねえ」
「……あぅ。全然嬉しくありません。それに、これくしょんって何ですか?」
「あ、何でも天の言葉で収集品のことをそう呼ぶらしいですよ」
「あわわわわわ」
「あらぁ? どうかしましたか?」
 艶技大全集に熱中している董卓の横で満面の笑みを浮かべていた張勲が不思議そうに首を傾げている。
 上手く回るか不安な口でたどたどしく声を発していく。
「な、なんで、七乃さんがこの本が収集品の一つって……」
「ああ、だって、徐州にいたころから見かけてましたし」
「あわわーーーーー」
 自分の知らぬところで、自分の趣味を知られていたことに鳳統は卒倒しそうになる。いや、むしろそのまま気を失ってしまいたいくらいだった。
「へう……こ、これ、気持ちいいのかな」
「ふふ、雛里ちゃんも良いお仲間が出来てよかったですね」
「……あ、これは……その」
 熱心に艶技大全集を見ている董卓が張勲の指摘にもじもじと小さな身体を一層小さくする。
「まあまあ、仲良く見ましょうよ。ね?」
 二人を交互に見ながら張勲が微笑む。董卓も鳳統も顔を赤らめたまま、ただ小さく頷くことしか出来なかった。
 そうして、三人は本を囲むように座りゆっくりと一頁ずつめくってはあれこれと話していく。
「こういうのって実現可能なんですか?」
「へう……わ、私に聞かれても困るんですけど」
「……あわわ、わ、わかりましぇん」
 体位やら様々な技巧などが掲載されているその本に張勲を除く二人が感嘆の息を零し続けていると、扉を叩く音がする。
「すまぬ、ちょっと聞きたいことがあるのだが。少々、時間はよいか?」
「……あ、はい。今開けます」
 鳳統は慌てて立ち上がると、扉の方へと駆け寄る。
「あ、雛里ちゃん! この本どうしたら……」
「開けっぴろげにしとけばいいんじゃないですか?」
「へう……でも……」
「知らない仲ってわけでもないんですから」
 そんなやり取りをする二人を背に鳳統は扉を開けて訪問者の顔を見る。
「おお、雛里。すまんな、実は人を探していて――」
「七乃ぉぉ!」
 新たな訪問者の正体は華雄、そして、彼女の声を遮るように中へと駆け込んできた袁術だった。
「あら、美羽さま。どうなさったのです?」
「どうなさったのですぅ? ではないのじゃー!」
 ぷんすかと怒り心頭の様子で袁術がズカズカと歩み寄ってくる。ご自慢の毛先がくるりとロールしている金色の長髪は彼女の怒りとは裏腹に悠然と宙を泳いでいる。また、その瞳は赤くなって潤んでいる。
「起きたら、妾は一人ぼっち。部屋中探しても七乃はおらんし……それで部屋から出たらこやつにあってのう。まったく、どれ程妾が心配したと思っておるのじゃ!」
 張勲に駆け寄ると、袁術は頬をふくらませてむっとした表情のまま彼女を睨み付ける。それでも張勲はにこにことした何を考えているか読めない微笑みを浮かべている。
「あらあら、心細かったんですねえ」
「そういうことではないのじゃー!」
 両腕を挙げてがーっと唸る袁術だが、いかんせん潤む瞳では説得力がない。
「あはは、そうですね。わざわざ探しに来てくださったのですよね。ありがとうございます」
「うむ、わかればよいのじゃ!」
 平坦な胸――鳳統も人の事を言えないが――を張ってえへんと満足したように頷く袁術に何だか温かい気持ちになる。董卓も艶本から視線を外し、柔らかな笑みを浮かべて二人のやり取りを見守っている。
「あー、おほん」
「あ、華雄さんもどうぞ、入ってください」
 いつまでも入り口で佇んでいたまま放置され気味だった華雄を招き入れる。
「うむ。済まんな。失礼するぞ」
「あれ? いたんですかぁ?」
「おい」
 張勲が何気なく発した言葉に華雄の声が半音低くなる。
「どうしました? えっと、かゆ……うま……? さん」
「だれが粥馬だ! はぁ、そもそも私はこいつのお守りをさせられたのだぞ。だというのに礼の言葉の一つも無しとはどういうことだ……」
 華雄が不満を織り交ぜた言葉とは反する疲弊しきった表情で張勲を睨み付ける。
「え? あ、そうですね。お勤めご苦労様です」
「…………確かに貴様らの世話も仕事の一つではある。ではあるのだが……なんかこう釈然とせんぞ」
「あの、華雄さん?」
「おお、月さま! これは奇遇、一体何をなさっておられたのですか?」
「……へう」
「む? どうなされました、そのように頬を赤く染めたりして」
「うふふ、実はですねー」
「わーわー、な、七乃さぁん」
 にやついた顔でばらそうとする張勲の言葉を普段では決して出すことのないような声で遮る。流石に、鳳統としても、おいそれとそれを話されるのは遠慮願いたいところだ。
「あら、駄目ですかぁ?」
「……えっと、その……でもぉ」
「むむむ? これは何なのじゃ? 一糸まとわぬの男と女が――」
「きゃー、み、みみみみみみみみみみみ美羽ちゃん!」
 張勲たちに気を取られている隙に袁術が艶技大全集へと視線を巡らせていた。
「なんじゃ、何故、この女人は男の背後からお尻に指――」
「……み、美羽ちゃん。あの……七乃さん、良いんですか?」
「なにがですか?」
「お、お前は何故、そんなに瞳を輝かせておるのだ」
「色欲の館で徐々に性という名の現実に汚されていく純真無垢なお嬢さま……たまらないじゃないですか」
「一度、医者に診て貰え。主に、頭をな」
 涎を垂らしかねないほどに弛緩した表情を浮かべている張勲には流石に華雄でなくとも引き気味になるのは致し方ないことだろう。
「のう、月? これはどういうことなのじゃ?」
「えっと……それは、その……へうぅ」
「ふふ、それはですね」
 にこにこと笑みを湛えながらも怪しげな光を瞳に宿した張勲が袁術の耳に手を添えてごにょごにょと何かを教えている。
「なーーーーーーーーーっ!?」
「ですから……で、……を……するんです」
「な、ななななな、なんじゃとーひょえええええ」
 次々と知らされる技巧に袁術の顔は真っ赤に染まり、瞳は大いに揺れていく。普段から張勲によって動揺させられることはあるようだが、今回はそれも一際大きいことだろう。
「それから……これが――」
「いい加減、その辺りで勘弁してやれ」
「えー、ここからがいいところなんですよ?」
「そっちがもう限界だろ」
 そう言って華雄によって示された袁術の顔は茹で上げられたように赤々としており、目も回している。
 これには鳳統も少しばかりやりすぎなのではと思う。だが、張勲は不服そうに口先を尖らせたままぶーぶー言っている。
「まーまて、かうう」
「いや、私は華雄……それは今はどうでもいいか。おい、大丈夫か? ふらふらだぞ」
「美羽ちゃん、あまり無理しては駄目ですよ?」
「わ、妾ならぜーんぜん平気じゃぞ。華雄も月も心配しすぎなのじゃ」
 そういうものの、同様からか瞳が先ほど以上に潤んでいるし、頁の端を持つ小さな手や声がぷるぷると小刻みに震えている。
「でも、おでことか……熱っ」
 そっと額に触れた董卓だが、すぐに袁術から手を離してしまう。
「ん、問題なしじゃ。ほれ、七乃、これはどういうことなのか妾に説明してたも」
「うわぁ、これはまたえぐいものを選びましたねぇ」
 妙齢の男女が絡み合う図式の一つを指しながら訪ねる袁術に張勲の顔が一段と輝きを増していく。
 意気込む袁術を不思議に思ったのか董卓が首を傾げながら彼女に声を掛ける。
「ねえ、美羽ちゃんはどうしてそんなに頑張れるんですか?」
「うむ。実はのう、さっき七乃が言っておったのじゃ!」
「……七乃さん、なんて言ったんですか?」
「じゃあ、雛里ちゃんには教えてあげましょうか? 実は――」
 張勲が口を鳳統の耳に近づけてこようとするのと同時に袁術がえへんと咳払いをする。
「そう、ここに書いてある奥義を極めれば主様も喜んでくれるとのう!」
「なっ!?」
「えっ!」
「……はぅぅぅ」
 まさかの一言に華雄、董卓、鳳統の三人はぴしっという音と共に身体が石のように固くなってしまう。
「ぬ? どうしたのじゃ?」
「美羽さまの飽くなき挑戦心に感服してるんですよー」
「おお、そうか。うむ、皆の者、もっと妾の心意気に感動するがよいぞ!」
「よ、魅惑の黄金律的肉体! ただし、一部の人向け! そのうえ、技巧を備えるなんてもう完璧ですよー!」
「はっはっは! 無論、妾は完璧、無敵なのじゃー!」
「あ、でも……無知は無知で……」
「む? ムチムチがどうしたのじゃ?」
「いえいえ、ムチムチは美羽さまとはあらゆる意味で無関係なのでお気になさらないでください」
「そうかえ?」
「ええ。ムチムチとは正反対の存在ですから」
「そうかのぅ? わからぬのじゃ」
 二人の会話を呆然と聞いているうちにようやくはっと我に返った鳳統は恐る恐る声を掛ける。
「あ、あの……お二人とも先程のは一体……」
「おお、ようやく元に戻ったようじゃのう。ふむ……さっきのかえ? もちろん、妾の決意じゃ」
「で、でも……美羽ちゃん、これはその……そういうことなんだよ?」
「どういうことなのじゃ?」
「それはですね、おしべとめし――」
「貴様は少し黙ってろ!」
「きゃあっ」
 いつの間にか正常になった華雄が張勲の頭部に手刀をたたき込んだ。急に喰らわされた張勲は頭を抑えて痛がる。
「んもぅ……何するんですかぁ」
「少々、頭を冷やせ馬鹿者」
 腕を組んだ華雄がふんと鼻息を漏らす。
「十分、私は冷静ですぅ。それより、華雄さん。最近、一段と馬鹿力に磨きがかかってるんですから、少しは加減ってものを覚えてくださいよ」
「知るか! ただ日常の鍛錬、修練、訓練とこれまで幽州、冀州、青州、それに徐州の一部と、あらゆる武芸家たちに勝負を挑み挑まれを繰り返しているだけだ!」
「それだけ、武芸に心血注げば十分に危険ですよぉ。歩く兵器です!」
「いいや、まだまだ。この華雄、大陸中に散らばるあらゆるものを習得せねば満足できぬ!」
「……戦馬鹿もそこまでいくと清々しいものですね」
 拳を握り何やら熱く語っている華雄を余所に張勲は、はあっとため息を吐く。どうやら、話の通じない相手と踏んで会話を打ち切ったようだ。
 その一方で、董卓が袁術に魂切丁寧に艶本のそもそもの意味について説明をしている。
「ですから、ご主人様の……が、その、私や美羽ちゃんの……に……で……なんです」
「な、なんと! ふむふむ、そ、それで……それで、どうなるのじゃ」
「最終的に……となって……な感じで……です」
「ほ、ほぉぉぉぉおおおお!」
 何故か、袁術は無性に感動したと言わんばかりに感嘆の声を発する。
「す、すごいのお、月は。博識なのじゃ」
「もしくは淫――ひぎゃっ」
「貴様、表へ出ろぉ!」
「ひぃぃいい! む、胸ぐらを掴まないでくださいよぉ! 馬鹿力でや、破れちゃいますー! ぽろり、ぽろりしちゃいます!」
 どうも張勲の一言が聞き捨てならなかったらしく華雄は凄まじい形相で張勲の服を掴んでいる。張勲の服は完全に伸びきっている。これ以上引っ張られれば本当に服が千切れるかもしれない。
「先の言葉、訂正するか?」
「しますって、しますから、服は離してくださいってば」
「ふん、よかろう。だが、次、あのようなことを言ったら承知せんぞ。まったく、不用意な一言で月様が淫乱であると知られたらどう責任とるつ――」
「華雄さん、酷い」
「つ、つも……つもももももも……もも?」
 うつむきがちに董卓が放った一言によって何をしても収まりそうになかった華雄の怒気がさっぱりと消え去る。だが、その顔は間抜け度十割になってしまっている。
「まあ、そうですよねえ。知られたらって、そうであるというのが前提の話になりますもんね」
 服を元に戻しながらの張勲の言葉に華雄は抱えた頭をぶんぶんと振り回す。
「し、しまったぁ! ち、違います。違うのです! というか、七乃! 元はといえばだな、貴様が――」
「冗談ですよ」
「へ?」
「こうでもしないと、華雄さん。落ち着いてくれないと思ったんです」
 顔を上げ、にこりと董卓が微笑むと華雄は崩れ落ちるように椅子に座り込んでそのまま机に伏せる。
「し、心臓に悪すぎますぞ。月様」
「ふふ、ごめんなさい」
「いえ、私が少々大人げなかったようです。やはり、まだまだ精進が足らぬということか」
 董卓と華雄の間で不思議と空気が和んでいる。
「……やっぱり、月ちゃんはすごいなあ」
「え?」
「……華雄さんの性格を把握して対処してるでしょ。きっと、ご主人様のお世話もそれくらい気が利いてるんだろうなって」
「それは……ううん、どうなんでしょうね。ご主人様はお優しい方ですから。きっと、何をしても喜んでくださると思うんです」
「ふむ、確かにやつが迷惑がったり邪険にしたりするというのは想像がつかんな……」
「麗羽さまの暴走に幾度となく付き合ってるわけですし、それなりに寛容なのかも知れませんね」
「むう、主様は確かに良くしてくれておるのう」
 艶本を中心にして話す内容なのか微妙だが、これは鳳統もあながち興味ない話題ではない。彼女は思いきって口を開く。
「……あの、皆さんはその……ご主人様のこと……」
「ん? なんじゃ?」
「あ、いえ。やっぱりいいです……」
 少々勇気が足りなかったらしい。鳳統の喉から先へ言葉は出すことはできなかった。
「えー? 折角ですし、ぱぱーっと言ってしまいましょうよ」
 にやっと口端を吊り上げながら張勲が顔をのぞき込んでくるが、鳳統はそれを帽子のつばで受け流してぷるぷると首を横に振る。
「……いえ、いいんです」
「むう、私も気になるのだがな」
「のう、そんなことより、もっと学ぶのじゃ!」
 唸る華雄とは別に一人袁術だけが頬杖を突いて艶本を眺めている。
「そうですね。私もそのために来ましたし」
「では、折角なので私も美羽さまと一緒に……」
 各々の思惑に従い艶本へと意識を戻していく二人。その一方で、席を立とうとする人物がいた。
「……あの、華雄さんはいいんですか?」
「わ、私はあのようなものはちょっと……この辺で、し、失礼する」
 これから話は本格的なものとなっていくのに華雄は短めの藤紫色の髪をかきむしりながら席を立ってしまう。
 先ほどから、艶本から顔を背け、これといって話に加わってこなかったこともあり、鳳統は嫌いなのだろうかと勘繰ってしまう。
「まあまあ、いいじゃないですか。折角ですからお茶も入れますよ?」
 そう言いながら立ち去ろうとする華雄の腕を掴み董卓もまた席を立つ。
「そ、そんな、月様にお茶を入れて頂くなどめっそうもない」
「え? 嫌……でしたか?」
「い、いや、不肖華雄、ご相伴に預からせて頂きます!」
「それじゃあ、準備してきますね」
「あ、でしたら、私もお手伝いしますよ。美羽さまの場合、ちょっと単純なこだわりもありますし」
 董卓の後に続いて張勲が席を立つ。彼女の言葉を聞いて即座に鳳統は蜂蜜だろうなと確信した。
 残された袁術は艶本を見てふんふんと頷いているが、華雄はちらちらとそれを横目で盗み見ているだけ。それが無性に面白くて鳳統は思わず笑みを零してしまう。
「む? 何かおかしかったか」
「……いえ、この際ですから恥は捨てて、華雄さんもご覧になってはいかかですか?」
「なっ、わ、私は武芸のみで生きる者、こ、このようなものは必要ないわけで……」
「……ホントですか?」
 じっと、彼女の瞳を見つめる。鳳統と比べてというより、男性と比べても遜色のない身長に強さ、それだけとればそう考えてしまうのもやむを得ないだろう。
「……でも、華雄さんは、何というか稟とした美しさがありますし、腰布の切れ目からすらりと伸びる脚線美や性格だって素敵ですし、一人でいるというのはもったいないと思います」
「なっ!? ま、まさか……いや、そんなことはあるまいて。そのような奇特な考えを持つ男などおらぬに決まっている」
「でも、ご主人様なら……」
「い、幾らあれが変わり者だと言ってもわ、私のような……者など……きっと眼中にはないさ」
「そうでしょうか?」
 華雄は口でこそ否定の言葉を並べているが僅かに頬を染めている。その様子からすると何か心当たりがあるようにも思えなくはない。
 なのに、これだけ頑なに拒んでいるのは何故なのだろうか。
「やつの傍には白蓮がいる。あの武芸においても女らしさにおいてもかなりのものを持っている星もいる。胸のデカさでは他に追随を許さぬ者もいる。その真逆をいく美羽やお前もいる。そして、何よりも月様がいる……私の入りこむ隙などありはせんさ」
「……もしかして、月ちゃんに気を遣ってるんですか?」
「い、いや、別段そういった理由はないわけでもなくはないようなそうでないような……」
 腕を組んで目を閉じると華雄は「ううむ」唸ったきり何やら考え込んでしまう。そこで鳳統は気がつく、華雄の立場としては答えるのが難しいのだ。
「あ、あの華雄さん……変なこと聞いてすみません」
「い、いや。別に構わぬさ。私も少々、おかしな反応を見せて申し訳ない」
「……でも、もし、月ちゃんとご主人様がその……そういう関係になって、その上で尚も華雄さんにも着くべき席があったとしたら、どうするんですか?」
「え? それは、えっと……む、難しい質問だな」
「……正直にぶつからないんですか?」
「そうじゃそうじゃ、猪突武将なんじゃから何も考えずぶつかればよかろう」
「あのな。私とて弁えるべき一線というものがあってだな……」
 いつの間にか艶本から目を離していた袁術へ視線を向けつつ、腕組みしていた片手を顎に添えて気難しい表情をする。
 そこへ、お茶の準備を終えた董卓たちが戻ってきた。
「お待たせしました。はい、お茶です」
「美羽さまは蜂蜜入りですよー」
「おお、流石は七乃じゃ。気が利くのう」
 各自湯飲みを受け取っていくと、最後に茶菓子が置かれる。
「さ、続きを読みましょうか」
「そうですね。あれ? どうしたんですか、華雄さん」
 華雄は先ほどから口を閉ざしたまま董卓から視線を反らしている。先程のことから考えると意図的に行っているのだろう。鳳統が何か取り繕うべきか迷っているとそういうことを考えない袁術が華雄の方へ艶本を寄せる。
「ほれ、か! そのようにうじうじとしておらんで、これを共に見るのじゃ!」
「かってなんだ? それに私は見ないと言っておろうが」
「馬鹿者! 人生これ、経験なりじゃ! 何が役に立つかはわかぬぞ。見ておいて損はないとは思わぬのか?」
「……それもそうだな。確かに美羽の言葉には一理あるかもしれん、雛里よ、済まぬが私も見せて貰うぞ」
「はい。一緒に見ましょう」
 にっこり微笑んで頷きつつ、鳳統はこれが自分の艶本についての話でなければもっと思うところがあったのだろうなと内心では笑みを苦いものとしていた。
 それから鳳統たちは姦しく艶本談義に花を咲かせ始めていく。こういった賑やかさは鳳統にかつての仲間たち、いや、今でも大切な者たちのことを思い出した。
「……朱里ちゃん」
 鳳統の親友である少女もこうやって艶本を読んでいるのだろうか。艶本を眺めながら感慨にふけっていると、袁術が質問してそれに周囲が答えたり、共に考えたりとし始めていた。
「これは、互いに逆に重なり合っておるのう」
「ああ、それはですね口で互いの……を……で……なんです」
「そ、そのようなものもあるのかや?」
「それはもう。ね、雛里ちゃん」
「……はぅ。そ、そうですね」
 同意を求めてくる張勲に小さく頷きつつ鳳統も意識を艶本へと向ける。あらゆる技巧を中心に取り扱っているとはいえ、体位などもそれなりに記載されており気がつけば室内の温度は体感でも分かるほどに上がっていった。

 †

 何度目かになる頁更新をすると、袁術はぴたりと一つの絵に視線を釘付けにして動きを止める。そして、そのまま口だけを動かしていく。
「のう、この口淫というのは果たしてどちらも気持ち良いものなのかのう?」
「……ど、どうなんでしょう」
「そうですね。男性は悦んでくれますよ。あと、好きな方が相手ならしてる方も胸が高まってきて」
 返答しづらい袁術の質問だったが、董卓は綺麗な紅色になる頬を両手で抑えながら何かを空想するように答えていく。
「なるほどのう。やはり博識じゃのう」
「って、ちょっと待ってくださいよ! ま、まさか……月ちゃんって……」
「へう-、い、今のは無かったことにしてください」
「……ね、ねえ。もしかしてもしかするの?」
「ひ、雛里ちゃんまで……あぅぅ」
「ゆ、月様! それは誠のことなのですか!」
「それはその……えっと……」
 全員の問い詰めるような視線に晒された董卓は困惑の窮みに達したのか顔を両手で隠してしまう。
「へう-、恥ずかしい……」
「あのあの、どんな感じだったんですか?」
「勿体ぶらず教えてたもれ」
 袁術と張勲の二人がぐいぐいと董卓に詰め寄る。さりげなく鳳統も耳を大きくして突き出す。
「お、お前らぁ……」
「えっと、それじゃ……あの、話せるところだけ」
「ゆ、月様?」
「うむうむ、是非とも参考とさせてもらうのじゃ」
「さあさあ、語っちゃってください」
「貴様らも少しは遠慮というものをだな、はあ、仕方ないか。それで、あいつとどのように?」
「へう……華雄さんまで。その、初めはぎゅっと抱きしめてくれて……それから口付けを――」
 そこから語られる話に対して誰一人言葉を挟むことは出来なかった。何故ならば、全員が全員、固唾を呑んで話の続きを聞き逃さないように集中していたからだ。無論、鳳統もその例に漏れずじっと話に耳を傾けていた。
 そうして、董卓の爆弾発言から始まった話によって尋常ならざる空気が漂い、部屋中が支配されていく中、この日、三度目の訪問者によって扉が叩かれた。
 そして、ここにいる誰もが聞き覚えのある声がする。
「おーい、ちょっといいか?」
「……あ、はい。どうぞ」
「わわっ、ひ、雛里ちゃん。それ、隠さないと」
「あ、あわわ、ど、どうしよう……」
「いいんじゃないですか? もう、白蓮さまも巻き込んじゃえば」
 妖艶な笑みを浮かべる張勲の肘が何気に艶本の一部を抑えているため動かせない。
「……な、七乃さん、肘をどけてくださいー」
「入るぞー」
「あっ、ちょっと待ってくださ――」
 その言葉を言い終える前に扉は開かれ眉を潜ませた公孫賛が入ってくる。
「まったく。お前らもう少し、静かにしろよ。外にまで声が漏れてたぞ。幸い内容は判別できなかったから問題ないとは思うが……」
「へう……」
 先程の内容を聞かれかけていた事実を伝えられた董卓が顔中を真っ赤にして俯いている。
「それでだ……雛里に助言、を」
 視線を机の方へと向けた公孫賛だったが、途中で言葉が止まる。
 それを追うように鳳統も視線を巡らせると、開きっぱなしの艶本が置いてあった。
「……あ、あのですね。これはその」
 慌てて弁解しようとする鳳統には目もくれずにしばし艶本に視線を留めた後、公孫賛は「……そうか」と呟き、頭を掻きながら乾いた笑いを零す。
「あ、あれ? 何の用だったんだっけな。忘れてしまったようだ。スマンが後で出直すことにするよ。それじゃ。いやーまいったまいった、はっはっは」
 いびつな笑みを浮かべたまま公孫賛はそそくさと部屋から出て行った。声も裏返りあまりにも不自然な様子に鳳統は首を傾げる。
(……ほんの一瞬だったけど、白蓮さんの顔に影が差したような?)
 そこに何か不安のようなものを感じていたが、鳳統以外は特にその様子もない。
「一体、なんだったのじゃ?」
「さあ、何か思うところでもあったのではないですか?」
「どうしたんでしょうねえ」
「最近、忙しいようですからな。疲れておるのでしょう」
「それじゃあ、後でお茶でもお持ちしようかな」
「何か出来ることがありましたら、この華雄にお申し付けください! ええ、是非に!」
 それぞれの会話を聞く限り、誰も公孫賛の表情の変化に気がついていないようだ。いや、むしろ自分の思い過ごしかもしれないと鳳統は負の方向へ惹かれがちだった思考を捨てる。
「で、どうなのじゃ、主様はどのような趣向を……」
「そうです。一体、どのような要求を受けたんですか? もしかしたら同じようなことを美羽さまにもするかもしれません……さあ」
「へう……そんなことを聞かれてもその、答えに困ります」
「お前ら、あまり月様を困らせるでないわー!」
 盛り上がる少女たちを見ながら、鳳統は熱でぽおっとなる頭の中でふと思う。一刀がここへ戻ってきたとき、彼とこの仲間たちは一体どうなるのか。今まで通りか、それとも何かが変わっていくのか。
 少女たちが何らかの動きを見せる方が早いのか、大陸に動きが生じる方が早いのか。
 それは彼が戻ってくるそとの時までわからない。
 それでも、鳳統自身のことだけは彼女には確実にわかっている。




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