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無じる真√Nー08
劉備たちが訪れてから初の戦が大勝利で飾られた後、劉備たちには、部屋が与えられることになり、しばらく公孫賛の元に留まり賊の討伐を行うことになった。
劉備たちと共に時々ではあるものの一刀もまた、賊の討伐に参加した。
そうやって賊軍の討伐を幾度も繰り返していく内に劉備たちの武名はあちこちへと知れ渡っていくことになった。そんな日々を過ごしながらも、大陸には不穏な様子が広がっている。それを一刀たちはひしひしと感じていた。
そして、それが自分たちの思い違いでも勘違いでもなく、事実なのであると言うことを一刀たちはすぐに知ることとなった。
匪賊の横行によって暴力に晒され、慎ましく生きることすら出来ないほどの大飢饉、さらに追い打ちをかけるかのように疫病による大被害などが巻き起こることで世は乱れ、そしてその乱れは人心へも広がり、仕舞いには大陸中へと広がり始めていったのだ。
そして膨れあがった人心の乱れは、多くの者たちの心をすさませていきついには暴乱が起こり、そこからさらなる暴乱が引き起こされることになった。 大陸はいままさに、暴力が無限に生み出される世となっていた。
「今、まさに大陸全土は混沌に覆われている」
誰が言うというわけでもないが口にしないだけで現在の状況を見た誰しもがそう感じているのは間違いなかった。
ただ、幸い公孫賛の治めているこの国は、一刀の提案した策によって他と比べ比較的に新しい形式の治安対策を行うことができていたため。被害が多少ではあるが押さえられている。
しかし、だからといって民衆の不安を打ち消せたというわけではないのだが……。
それに対し、他の国では事件が多発するため警邏の兵の精神的な緊張が増え、かなり昂ぶっているらしい。おそらくそれが大陸中へ広がるのも時間の問題だろうと一刀は思う。
その影響を受けている国の中には、前の"外史"で関わったことのある国も多く含まれていることだろう。それを考えると、一刀の胸は大きく痛んだ。そして、大陸にある国々への心配が一層強まっていく。
だが、今の自分には何の力もない。出来ることなどろくにない。せいぜいこの国の人たちを護るために頭を振り絞ったり、動き回ったりするくらいである。そう思い自己嫌悪に陥りそうになる一刀。それでも、そんな彼の心を公孫賛を始めとした少女たちや街に住む民の笑顔が少なからず救ってくれていた。
現在、大陸中を覆っているこの負の連鎖に巻き込まれた状況に対し、心を痛めつつも過ごしていたある日のこと。
とある指導者の『蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし』という言葉の元に暴政に対して怒りを露わにした民衆が集まり、官庁を襲撃したという報せが届いた。
更に続きがあり、それはより望ましくないものだった。
誰しもが、官軍が鎮圧すると思っていたのだが、逆に暴徒によって制圧されてしまったというのだ。
さらに、暴徒たちは各地で街や村を襲撃し始めたのだ。その一件の影響のためか、暴徒によって大陸の三分の一が制圧された。
たいした対策を施さなかった朝廷は、その報せを受け萎縮したらしい。もはや、官軍は頼みにはならないことがはっきりし、各地方の軍閥へ暴徒たち『黄巾党』の討伐命令が下されることとなった。
"時代が、恐れていた通り動乱の渦へとのまれていく"一刀は確かにそう感じた。
討伐令が下された翌日。朝議の場にて、公孫賛軍もその戦いへ参加する旨がその場にいる全員へと伝えられた。
そして、この戦いは劉備たちが更なる一歩を踏み出すための好機であることも公孫賛の口から伝えられた。
†
朝議を終わってから少したった頃、一刀は趙雲たちと共に廊下を歩いていた。 劉備たちへ渡す兵糧と武具の手配をしに兵站部へと向かっているところだった。
手配をまかされた趙雲と、手配に関するやり取りなどについて教わるために付きそっている一刀、受け取る側である義勇軍の代表として劉備、そして、その劉備についてくることにした張飛。以上の四人が現在共に行動していた。関羽は義勇兵を募りに街へと出ていったためそこにはいなかった。
「しかし、白蓮には悪いことしたかな?」
「いえ……仕方がないことだと思いますぞ。桃香殿たちへの餞別なのですから」
「まぁ、そうだけどな……」
そう答えつつも、趙雲の申し出を受けたときに公孫賛が見せた顔が一刀の頭に浮かぶ。
「劉備三姉妹に対しての徴兵の許可を出してみては」という趙雲の進言に結果としては了承したものの、公孫賛の顔は笑顔を浮かべながらも口元が引き攣らせるという複雑なものだった。
「そう言う一刀殿も、私の意見に同意しておりませんでしたかな?」
趙雲はそう言って一刀をちらりと見やる。
「う……そ、そうだな……そうだよな……」
思わず一刀は口ごもってしまう。
そう、先程趙雲が意見もっともだと思った一刀はつい同意してしまったのだ。そのとき一刀が同意したことで渋っていた公孫賛が首を縦に振ったのを思い出し苦笑いを浮かべる。
「ならば、一刀殿も私の考えについては、悪くないと思われたのではないですかな?」
「た、確かにそうは思ったけど、白蓮のあの顔を見ちゃうとな……さすがにまずかったかなって思うんだよなぁ……」
ため息混じりに一刀が口にしたその言葉を趙雲は涼しい顔で受けている。
「なに、先程も申したとおり、その分私たちが働けばよろしいのですよ」
「確かに星の言っていることはもっともだ。俺たちが考えるべきなんだよな」
そう言いつつ一刀は密かに決意をする。
(俺も、もっと頑張らないとな……)
「えぇ。そうですな」
一刀の言葉に趙雲は口角をくっと上げて笑った。
「あの、星ちゃん、一刀さん」
「ん? どうした桃香?」
「なんですかな、桃香殿?」
二人は会話を止めると、声をかけてきた劉備の方を向く。劉備は何故かその場に止まり二人をじっと見つめている。
「二人とも、さっきはどうもありがとう」
どうしたのかと立ち止まった二人に、劉備が笑顔のまま頭を下げて礼を言う。
「……いえ、別段礼を言われることなど致しておりませぬよ」
「まぁ、そういうことだから気にしなくていいよ」
だが、劉備は首を横に振ってそうではないと言う。
「ううん、だって二人はわたしたちに便宜を図ってくれたでしょ」
「ふふ……どうでしょうな?」
趙雲が、悪戯な笑みを浮かべて劉備を見つめる。そうすると予測していた一刀も同じような顔で劉備を見る。
そんな一刀たちに「えっ?」と一言漏らして呆然とする劉備にしばらく微笑んでいた趙雲が真剣な顔つきとなり、口を開いた。
「それよりも、桃香殿は討伐にさいしての策はおありなのですかな」
「えっと、実は何も無いんだよね……ただ、おいおい考えていくつもりではあるんだけどね……」
その後も、二人は劉備たちの戦いについての会話を交わしていく。そして、その話が切れたところで、劉備が改まった様子で趙雲に質問を投げかけた。
「ところで……星ちゃん」
「なんですかな?」
「星ちゃんは客将なんだよね? ってことは白蓮ちゃんの臣下じゃないんだよね?」
「えぇ、ですから白蓮殿に雇われ、力を貸している立場ですな」
「なら、いつかはどこかに行っちゃうのかな?」
「さて……それはまだわかりませぬな。白蓮殿のもとに留まるのか、はたまた私が尽くすべき主を探すか……はてさて、一体どうなりますかな」
他人事のように可笑しそうに笑う趙雲だが、劉備の顔は真剣なものから変わらない。
「じゃあさ……もし、その時がきたらわたしたちのところへ来ない?」
「っ!?」
隣で落ち着いた様子で劉備の問いを聞いている趙雲よりも自分の方が動揺しているのではないかと思うほどに一刀の鼓動が速まっていく。
「ふふ……なかなか魅力ある誘いですな。それもまたよいかと思ってしまいますな」
「じゃあ―――」
趙雲の答えに一瞬で表情をぱっと輝かせて見つめてくる劉備の言葉を当の本人である趙雲が遮るように口を開く。
「しかし、私は、自らの道は自ら決めますゆえ……簡単には答えられませんな」
「そっか……ごめんね、急に聞いたりして……」
先程から変わることなく、真剣な表情のままやんわりと断る趙雲に、申し訳なさそうに劉備は謝った。
「いえ、今は白蓮殿への恩があるゆえ、その恩義に報いるためにも白蓮殿への協力をしていますが、その後、桃香殿が我が主候補になっていればどうなるかは、わかりませぬよ」
「そっか……それなら候補者になれるように頑張ってみるね」
「ふふ……精進してくだされ」
そう言うと趙雲は劉備に一瞥を送り、すぐに前を向くと成り行きを黙って見守っていた一刀とに目配せし、彼と共に再び歩き出した。一人意気込むことに集中していた劉備も張飛に促され慌てて二人の背を追った。
†
兵と何かしらのやり取りを交していた趙雲が傍らに控えている劉備の方を向く。
「――さて、これで手続きは全て終わりましたぞ」
「ありがとう、星ちゃん。それじゃあわたし、愛紗ちゃんが気になるから行くね」
「鈴々もなのだ!」
「えぇ、ではまた」
「走ったりして転ぶなよ〜」
手配を終え、劉備たちが関羽を手伝うと去っていく姿を見送った後、隣にいる趙雲に先程から気になっている事を訊ねる。「なぁ、星。本当は桃香のところに行く気があるんじゃないか?」
一刀の知っている流れ――趙雲が劉備の率いる義勇軍もしくはそれに類する軍に仕官する――と、先程の劉備と趙雲の会話を端から見て導いた考えだった。
「ふむ、それはどうでしょうな……まぁ、白蓮殿の臣下になる可能性よりは高いかもしれませぬな」
口元に手を置き意味ありげに一刀を見ながら趙雲はその考えを口にした。その答えが一刀の予想とほぼあっていたことにわずかに内心で落胆する。
趙雲はやはりここから離れるのだろう。そんな考えが頭に浮き上がり、一刀は気持ち寂さを覚えた。
(女々しいやつだな……)
自分の心をそう一笑に付すと一刀は口を開いた。
「そっか……」
「……ただ、より高い可能性で仕えてみるのもよいかもしれないと思う相手は実際のところ一人おるのですが……」
趙雲の付け加えた一言に驚きを隠せない一刀は彼女の顔を凝視する。劉備以上に仕える可能性の高い相手など一刀からすれば意外すぎることなのだ。
そんな感情を抑えきれず興奮をわずかに漏らしつつ趙雲に訊ねる。
「そ、それは一体誰なんだ?」
「おや? おわかりにならぬと?」
「あ、ああ……で、誰なんだよ? いいだろ、教えてくれってば、ここだけの話にしておくからさ」
意外といわんばかりに目を丸くする趙雲に一刀は両手を合わせて嘆願する。
「ふ……時が来れば自ずとわかりますよ」
そう一言だけ答えると、趙雲は一瞬だけ微笑を浮かべ、手配を終えたことを伝えるために公孫賛の元へ向かって歩を進めていった。
一刀にはそんな彼女の後ろ姿を見送ることしかできなかった。
†
結局、趙雲にとって最も仕える可能性のある相手については知ることができず、一刀は悶々としたまま夜を迎えた。
それでも仕事はこなし、ようやく最後の仕事も片付けて一日を終えようと寝る準備を始めるために一刀が立ち上がるのと同時に部屋の扉が控えめに叩かれる。
「ん、誰だろう? どうぞ」
一刀が手を止めて来客に対して入室を促す。すると、扉を開いて劉備が静かに入ってきた。少し遠慮気味に一刀の方を伺っている。
そんな劉備の様子が気にはなったものの、一刀は取りあえず、椅子へ座るよう彼女を促し、自らも相対するように座る。
「……ごめんね、こんな時間に」
「いいって、気にするな。それで、どうしたんだ?」
「うん……今日の朝議のことなんだけど」
どこか暗い。部屋へ入って来た劉備を見た一刀がはじめに抱いた印象はそれだった。劉備は普段とあまり変わらない声量、声質で喋っている。
だが、どこかいつもの明るさがない気がしてならない。そんな想いを内に押さえつつ、取りあえず先を促す。
「あぁ、朝議で出た話のことか?」
「うん……ほら、黄巾党との戦いに向けてわたしたちが独立するって話があったでしょ」
劉備が語り出したのは、朝議にて公孫賛から伝えられた話に関することだった。
一体どうしたのだろうかと思い内心で首を傾げつつもそれを微塵も表に出さないよう気をつけつつ、一刀は質問を投げかける。
「それが……どうかしたのか?」
「……わたしたちが独立することになったけど、それが現実となった時のことを想像してみたらね……なんだか不安になっちゃってさ」
「……不安?」
呟くように語り始める劉備の言葉に一刀は首を捻りそうになりつつも、一層表情を引き締めた。
(なるほど……桃香の内面に関する話か……)
「うん、わたしに皆を引っ張っていく事が出来るのかなって……」
そう言って、劉備は俯かせていた顔を一層深く俯かせてしまう。彼女の気持ちがわからないでもない一刀は納得するように頷きつつ口を開いた。
「なるほどな……でも、なんでそれを俺に聞くんだ?」
少なくともこの世界での一刀というのは、経験の元では心許ないのは紛れもない事実である。それならば、実際に多くの兵を率いている公孫賛の方が良いのでは……と思ったところで一刀は、彼女には空いてる時間自体が少ないことを思い出しその考えを打ち消す。
次に、何だかんだで色々とためになる助言をしてくれる趙雲ならば、一刀がそれを思いついたのと同時に劉備がが再び口を開きしゃべり出した。
「えっとね……最初はたまたま会った星ちゃんに話をしたんだよ……そうしたらね、『それでしたら、一刀殿にお聞きになられるのがよろしいかと』って言われたの。それで、一刀さんのところにお話を聞いてもらいにきたんだよね……」
「星が……そんなことを?」
趙雲がそう言ったという事実と妙に上手い劉備の口真似、一刀はその二つに対して同じくらいの驚きを覚えた。
「うん……迷惑だったかな?」
いつの間にか縮こまらせた躰を強張らせながら劉備が一刀の顔を伺い見る。妙に緊張している劉備に苦笑しつつ、一刀は自分の意思を伝える。
「いや、俺でよければ聞くよ」
その返答にほっとしたらしく、劉備は身体全体の力を抜いて安堵のため息を吐いた。
「ありがとう。一刀さん」
「気にしなくていいよ。まぁ、俺に手助けできるかはわからないけどな。それで、大勢の人たちを引っ張っていけるかだったかな」
「うん……」
そこで、腕組みしながら少し考えてみる。まず、一刀自身の経験を思い出す。前の"外史"で多くの人たちを形式上は率いていた。もっとも一刀自身はみんな仲間だと思っていたので率いているという意識はなかった。
そんな一刀もはじめは目の前にいる少女と同じだった。二人の仲間、そして自分たちの力になろうと集まった人々、そんな極小規模の勢力だった。 その時、一刀は劉備と同じ思いを抱いた。当時、極小とはいえ何十、何百という人たちが一刀の元に集まった、そして、それを自分がちゃんと率いることができるのかを……そして、旗揚げ当初に抱いたその思いは消えることなくずっと抱き続けていた。
そこから一つの考えを導き出した一刀は、次に劉備の周囲に関して考えを巡らせる。
今、彼女の側近として二人の妹、関羽、張飛、がいる……もしかしたらこの先王佐の才を持つ軍師に出会うかも知れない……色んな事を頭の中で思い浮かべていき、ついに結論は出た。
そして、劉備の方へ真剣な視線を向けつつ一刀は自分なりの意見を口にする。
「まぁ、桃香なら心配ないと俺は思う」
「え!? なんで?」
信じられないといった様子で身を乗り出し一刀に聞き返す劉備。その胸が乗り出した際に机と自らの躰の間に挟まれ形を変えている。
そちらに目がいきそうになるも一刀は頭を振って意識を切り替える。
「……一緒にいる愛紗や鈴々を見てれば、心から桃香を大事に想い、そして……実際にそうしていることがわかる。それは桃香という人物が相手だからこそ、そうなったんだと俺は思う。だから桃香は自分に自信を持っていいと俺は思うぞ」
そこまで言って劉備の反応を見てみるが、一刀が述べた言葉の中に納得出来るだけのものがなかったのかまだ首を傾げている。
「ううん……そう……かなぁ?」
「あぁ、俺が思うにだな。おそらく桃香には、人を惹きつける何かがあるんだと思う。それこそ後から身につけるには難しい何かをな。ただ、それでも心配なものは心配だとは思うし、不安を抱いてしまうのもしょうがないだろうとも思う。だからさ、思いっきり悩んでみるといいんじゃないか?」
正直、話している内に一刀自身何を言ってるのかわからなくなっていた。ただ思ったこと、考えたことをありのまま劉備に伝えていく。
また、後半に関しては口にした一刀にも断言は出来ない。だが、きっと必要なことだとは思っている。
「思いっきり……悩む?」
それでいいのだろうかという顔で劉備は一刀を見つめる。ここで下手な心配を彼女に与えるのも良くないと判断し、一刀は力強く頷いて応えてみせる。
「あぁ、悩むだけ悩んで……そして、悩みぬいたうえで桃香自身が納得すれば、それは桃香に強い芯を作ってくれると俺は思うぞ」
それは、一刀自身の経験からくるものだ。前の『外史』において、悩みながらも一つのことを心に決めて進み続けたとき、一刀の中には強い芯が出来上がっていた。それは、きっと目の前の少女にも当てはまる。一刀はそれを心のどこかで確信していた。
「強い芯……」
「そうだ。芯があれば独立した後に何があっても大丈夫だと思う。その強い芯を自分の中に持つことで選んだ道を歩んでいく覚悟も出来るはずだ。そして、手にした覚悟はその人が何かつらい状態に苦しむことになったとき、再び立ち上がるための糧となるはずだ、それに……」
そこで一刀は一端区切る。劉備は先が気になるらしく、再び躰を乗り出して話の先を急かすように聞き返す。
「……それに?」
「それに……桃香には、自分の手で多くの人たちを救うっていう目標があるんだろ? なら、それを桃香の中に強い芯を作る要素にすればいいと思うんだ」
「要素?」
聞き返す劉備に一刀は黙って頷き続きを口にする。
「たくさんの人を救いたいという理想、そのために力を借りる人々をしっかりと導いていけるのかどうかという現実、その二つは割と密接な関係にある。だから、理想に対して強い想いをぶつけるように、今悩んでいるような現実にも想いをぶつけるんだ」
「理想……現実……」
「さて、最初に戻るぞ。今述べたとおり、桃香は幸いにも抱いている悩みと同じ、もしくはそれ以上の目標を持っている。なら、わかるだろ? どれくらい悩むべきか」
「うん……目安があるとわかりやすいね」
ようやく、わずかだが劉備の表情に明るさが戻っていく。それに安堵しつつ、まだ言わなければならないことがある一刀は口を開く。
「それからさ……桃香には、愛紗も鈴々もいる。あの二人は必ず、桃香が困ったときにはなによりも頼りになる力となってくれるはずだ……違うかな?」
一刀の問いかけに一瞬はっとした表情をすると、劉備はその顔に戻りつつある明るさがまた増やしていく。
「ううん……そうだね! わたしには二人がいるんだよね!」
目を爛々と輝かせて訊ねる劉備に一刀は笑顔で頷くことで念押しする。
「そのとおりだ」
「二人の事も含めて考えて、考えて……考え抜いて結論をだしてみる。それがいつになるかはわからないけど……でも頑張れると思うんだ。愛紗ちゃんや鈴々ちゃんがいれば」
そう語る劉備の顔は先程までの暗く弱々しい雰囲気などは完全に霧散し、太陽のように明るく輝いている。それでいて、穏やかさの中にどこか凛々しさのようなものが加わっている。一刀はそう思った。
「どうやら……もう大丈夫みたいだな」
すっかり顔色の良くなった劉備を見て、なんとかなったのだと判断した一刀はようやくといった思いで胸をなで下ろした。
「うん、ありがとう。一刀さん」
「いいって、それよりちゃんと結論を出せよ……いや、それ以前に悩んでみるんだぞ」
「うん、大丈夫。なんだかすっきりしたから……きっとわたしなりの結論を出せると思うの……えへへ」
一刀には、そう言って笑う劉備の笑顔が輝いて見えた。同時に彼女はもう大丈夫なのだろうという確信も得ていた。
「よし、いい顔だ。それじゃあ、戻ってその顔を二人に見せてあげないとな。きっと心配してるぞ」
「そうだね。それじゃあ、わたし行くね」
「あぁ」
別れの言葉を告げ、扉へ向かおうとする劉備が足を止め振り返る。入り口まで送ろうとしていた一刀もそれにならい立ち止まる。
「そういえば……」
「ん?」
劉備は、同じく立ち止まっている一刀の顔をまじまじと観察したかと思うと、柔らかさを感じさせるような笑みを浮かべ口を開いた。
「星ちゃんが一刀さんに話してみるといいって教えてくれた理由がわかっちゃったかも」
「え?」
急な言葉に一刀の思考が追いつかない。そして、そんな風に呆気にとられている一刀を見て、劉備がくすりと可笑しそうに笑う。
「ふふ……なんでもないよ。それじゃあ、おやすみなさい」
「あ、あぁ……おやすみ」
何故か嬉しそうに挨拶を交わすと、劉備は部屋を出て行った。その足取りはどこか軽そうだった。
劉備が退出してからしばらくして、ようやく我に返った一刀が首を捻る。
「しかし……星もなんで俺なんかを薦めたんだ?」
腕組みをして頭を捻り、しばらくの間考えてみたものの答えも出なかった。
だが、再び悶々としたものを胸に抱くのも嫌だった一刀は気にするのは止めようと判断した。代わりに、趙雲が言っていたことを思い出してみる。
『高い可能性で仕えてみるのもよいかもしれないと思う相手はおりますが……』
『ふふ……時が来れば自ずとわかりますよ』
部屋に差し込む月明かりを浴びつつ寝台に寝転がり、考える。
(星が白蓮や桃香よりも仕える気のある相手って一体……誰なんだ? てっきり、桃香が最有力候補なんだと思っていたんだがな……)
一刀はそのまま、趙雲が仕える対象……もとい候補者について考えを巡らせることに没頭していたが、徐々に襲い来る睡魔と戦い始め……敗れることで瞼を落とした。
†
劉備の一刀の自室訪問から再び時間は経ち、劉備たちの旅立も翌日にまで迫っていた。
その日の朝、一刀は誰かが廊下かを駆けている足音で意識を目覚めさせた。起き抜けでまだぼうっとしている彼のいる部屋の扉が勢いよく開かれた。
そして、何者かが一刀の上へと飛び乗ってきた。
「ぐぇっ……」
「お兄ちゃん! 起きるのだ!」
「……」
突然の来訪者よりもたらされた苦痛に一刀の呼吸と言葉が止まる。
張飛は恐らく、一刀がそんな状態であることなど気づいてはいないだろう。ただただ、何の反応も見せない一刀を見て不思議そうに首を傾げている。
「にゃ? どうしたのだ?」
「ぐぅぅ……何度も言うけど、頼むから飛び乗るにしてももう少し優しくしてくれ」
「にゃはは、ごめんなさいなのだ」
苦笑しつつ嗜めると張飛も頭を掻きつつ苦笑混じりの謝罪の言葉を口にした。この素直さが彼女の良いところなのだろう。一刀は素直にそう思う。
「で? なにか用があったんじゃないのか?」
「そうだったのだ! 今日は、お兄ちゃんはお休みだって聞いたんだけど……本当?」
「ん? あぁ、そのとおりだよ。俺は今日休みをもらってるよ」
目の前の女の子と一刀の休みがどう関係しているのかはわからないものの、一刀は彼女がその答えを語るのを黙って待つ。
「じゃあねじゃあね、鈴々もお休みだから、一緒に過ごそうなのだ!」
「そうだな、そうしようかな」
「やったー!」
張飛の誘いを一刀が承諾すると、彼女は満面の笑みを浮かべながら布団の上で飛び跳ねる。おそらく誘いに来たのはいいものの断られるか心配だったのだろう。
その後、一刀は簡単に準備を済ませ部屋の外で待っていた張飛に声をかける。
「お待たせ。ところで、鈴々は朝食のほうは済ましたのか?」
「ううん、お兄ちゃんと一緒に食べようと思ってたからまだなのだ」
「そっか……まずは食事にしようか?」
「うん!」
二人で、朝食を食べることにし、歩き始める。そこで今日の予定を張飛に訊ねる。一刀自身予定がないのもあるが、もしかし たら張飛がすでに予定を立てている可能性もあるため先に訊ねることにすると、その予想は当たっていたらしい。一刀は、元気よく頷いた張飛にさらなる質問を重ねるために口を開く。
「それで、これからどこに行くんだ?」
「中庭に買ってきた肉まんが置いてあるから一緒に食べるのだ!」
張飛が嬉しそうに答える。よく見れば口の端から涎らしきものが溢れており、それがてらてらと光を反射している。そんな油断しきった張飛の顔に、一刀は思わず苦笑を漏らしてしまう。
「なぁ、もしかして朝一で買ってきたのか?」
「そうなのだ。いい匂いがして、とっても美味しそうだったのだ!」
そんな言葉を聞いて、買って帰ってくるまでの様子が思い浮かぶ。
(ふふ……きっと、口を涎でいっぱいにさせて肉まんだけを見つめながら帰ってきたんだろうな)
買ってきたときのことを思い出したのだろう。張飛の口から溢れる涎の量が先程よりも増している。その様子を見ながら一刀は食事を取る準備万端としか思えない彼女に声をかける。
「なら、速く向かわないか?」
「応!! なのだー!」
張飛は明るい声で威勢の良い返事をするやないなや、もの凄い速度で駆け出す。一刀も彼女の後ろ姿を微笑ましく見守りながら追いかけるように中庭へ向けて足を速めた。
中庭に着くと、すでに劉備と関羽が席に着いていた。卓上には肉まんの山が出来上がっており、そこから立ちこめる湯気が一刀の鼻腔をつき、なんとも食欲をそそる。
「おっ、二人も一緒なのか?」
二人と向き合う形で席に着きながら一刀は声をかける。
「うん、そうだよ」
「えぇ、ご一緒させて頂きます」
劉備も関羽も行儀良く座っている。卓に置いたままにしている両腕を見る限り、二人が張飛に呼ばれた一刀がやって贈るのを待っていてくれたことが伺える。
それを察するやいなや、一刀は待たせたことに詫びを入れておくことにする。
「ごめんな、待たせたろ?」
片手を顔の前にあげて謝りながら近づく一刀に対して劉備は片手を胸の前で左右に振りながら応える。
「ううん、そんなには。ねぇ?」
「えぇ、私たちが戻ってきたのもちょっと前ですからね」
関羽も劉備の言葉に同意する。それが、一刀を気遣っての言葉なのかそれとも本当のことなのかは一刀にはわからない。それでも彼は一言告げずには居られなかった。
「ありがとうな、二人とも」
一刀がそう言って笑顔になるのとほぼ同時に張飛が訴えるような声を上げる。
「う〜お腹が空いてるんだから速く食べようなのだ!」
張飛のその言葉に、三人は思わず顔を見合わせる。そして、それがまた可笑しくて吹き出してしまう。
「ははは、それもそうだな」
一刀は笑いを噛み殺しながら、張飛の言葉に頷く。
「うん、そうだね。温かいうちに食べないともったいないもんね」
劉備も同意する。その頬が未だに緩んでいる。
「そうですね、ほらっ鈴々も速く席に着かぬか」
そして、関羽が微笑を浮かべたまま頷きつつ張飛を促した。
「わかったのだ」
そう言うと張飛は、空いている椅子ではなく何故か一刀の方へと向かう。
「ん? もしかして、ここが鈴々の席だったのか? なら、ごめんな。すぐにどくか―――」
謝りつつ、一刀は席を立とうとするがそれは叶わなかった。何故なら、膝の上に張飛が 座ったからである。
「さーて、じゃんじゃん食べるのだ! いっただきまーす!」
嬉しそうにそう言うと、張飛は肉まんに手を伸ばした。
「もぐもぐ……はぐっ、うーん、やっぱり美味しいのだ〜」
「はっ!?」
張飛の幸せそうな声を耳にしたところで、ようやく一刀の意識が戻る。ふと劉備と関羽の方を見ると、まだ固まっている。
そんな二人を出来るだけ視線から外すようにしつつ、一刀も肉まんを一つ掴む。膝に座っている張飛は気にしないことに決めた。
「おぉ、いい匂いだな。どれ、あむっ……うまい!」
口に含んだ瞬間、絶妙な柔らかさとハリを持った生地が口内に触れる。その生地を噛むと、中から肉汁が染み出してきて、広がっていく。
その肉汁が舌に触れる瞬間、肉まん用に調理された肉から溢れ出てくる独特の旨味、それが口腔内へと伝わってくる。そして、ごくりと飲み込むと、先程から鼻腔を刺激している肉の香りに食欲が増している状態の胃袋へと肉の旨味が広がっていく。
一つを食べることで、次の一つを食べたくなる味、まさに美味。 などと、一刀が脳内評論を行っていると劉備と関羽がぴくりと動く。
「はっ!?」
二人は同時に我に返ると、ばっと視線を一刀と張飛へ向ける。
「なにしてるのかな? 鈴々ちゃん」
「お、ま、え、はなにをしておるのだ!」
「?」
一刀の反対側に座る二人が口調はそのままなのに何故か圧を感じさせるように言葉を投げかけるが、対象である張飛自信は別に気にした風でもなく、不思議そうに二人を見ている。
だが、張飛を膝に載せている一刀は背中を冷たいものが走るのを先程からずっと感じていたりする……。
張飛がよくわかっていないと判断した二人は更に言葉を重ねようと口を開く。
「あのね、鈴々ちゃん。一刀さんの上に座ってたら迷惑でしょ?」
嗜める口調で言ってはいるが劉備の目はすわっている。気のせいか声にも凄みのようなものがあるように感じる。一刀はそう思い、だらだらと嫌な汗をかく。
「そうだぞ、お前も幼い子供ではないのだから、そういった事は控えたらどうだ?」
こちらも劉備とまったく一緒……いや、関羽の方は声や口調自体も強めだ。
「う〜ん、鈴々はただ、ここがいいと思ったから座っているのだ。それに星だって『好いた殿方の上に乗り至福の時を過ごすことこそ女の喜びというもの』って教えてくれたのだ。だから、鈴々が大好きなお兄ちゃんの上に座るのはおかしくないのだ!」
始めは淡々と述べていた張飛だったが、最後の方はその控えめな胸を張って自信満々に二人に意見した。
そんな張飛を見ながら、何故趙雲はいつも騒ぎの種をどこかしらに植え付けるのだろうか、と思いつつ一刀は手を額に添えてため息を吐く。
「せ、星のやつはなにを吹き込んでるんだ……」
「な、ななななな……」
関羽は本来の意味を理解しているのか、顔を真っ赤にしてしまい、口も呂律が回らなくなっている。
「なるほど、それでなんだ……」
そう言って何かを考えるような素振りを見せる劉備。それから少し考えた後、急に何かを思いついたような顔をすると、座っていた席を立ち一刀たちの方へと歩み寄る。
「ど、どうしたんだ。桃香?」
「別になんでもないから気にしないで」
内心びくびくとしながら訊ねた一刀を一言で制しながら劉備は一刀の隣へと来た。
「それじゃあ、鈴々ちゃん」
名前を呼ぶのと同時に劉備は、張飛の躰に手を伸ばす。そして、劉備はそのまま張飛の腕のしたに手を通す。
「ちょっと、こっちにいってね。で、よいしょっと」
張飛の躰を一刀の両膝から浮かせると、そのまま位置をずらして片膝へと移動させた。 そして、空いたもう片方の膝に劉備が座る。
「え、えぇと……あの? トウカサン?」
困惑しつつも一刀は声を振り絞って質問を口にする。
「なに? 一刀さん」
何事もないような様子で顔を向ける劉備に一刀は自分の方が間違っているのかとさえ思えてきてしまう。
そんな考えを掻き消すように頭を振って質問を投げかける。
「何故に座っておられるのでしょうか?」
「だめ?」
今度は上目遣いで訊ねられる。そんな訊かれ方されたらどうしようもなく、一刀の口から今にも「だめじゃない」という答えが出そうになる。だが、そうもいかないとばかりに理性が働き、劉備を……そして、張飛をなんとか説得しようと口を開きかけるが、それより先に劉備に質問を投げかけられる。
「鈴々ちゃんはよかったのにわたしはだめなの?」
「うっ!?」
劉備の口にした言葉に、一刀は口をもごもごと口ごもってしまう。張飛が座っているのを容認してしまった以上、劉備だけだめだと断るのもいけない気がしてしまう。
どうしたものかと視線をあちこちに迷わせていると、もう一人の当事者である張飛が何食わぬ顔で肉まんを食べるのに集中している姿が映る。それを羨ましく思っていると、待ちきれなくなった劉備が口を開いた。
「ねぇ、どうなの?」
目を合わせて訊かれる。膝の上に座っているため顔が近い。
「え、えぇと……わかっ――」
「な、なにをなさっているのですか!!」
諦めて、現状を受けとめようとする一刀の言葉を遮り、関羽の怒声が飛んでくる。
「え? なにって一刀さんの上に乗ってるんだよ」
妙な迫力を感じさせる関羽にあっけらかんと応える劉備。その二人を見ながら一刀は躰をぶるりと震わせる。
「そういうことではなく……」
どこか呆れたように呟く関羽、顔を俯かせているため一刀の位置からではその表情をうかがい知ることが出来ない。
「先程まで鈴々に注意を促していたのに何故、同じ事をしておられるのかと訊いているのです!」
関羽は身を乗り出して少し強めの口調で劉備に質問を投げかける。
「いやね、ほら、よく考えたらわたしたちは明日ここから旅立つわけじゃない。だったら今日ぐらいは……ね?」
そう言って劉備は躰を後ろへと倒す――そうなればもちろん、一刀に躰を預ける態勢になるわけでより密着度が増すことに一刀の鼓動が速くなる。
気づけば、張飛もいつの間にか食べるのをやめて一刀に背を預けている。
そんな二人をしばし見つめた後、関羽がため息を吐く。
「はぁ、しかたありませんね。今回は多めにみることにします」
「えへへ、ありがとう。愛紗ちゃん」
はにかみながら関羽に礼を言うと、劉備はさらに言葉を続ける。
「後で変わってあげるからね。愛紗ちゃん」
劉備はそう言って片目をぱちりと瞬かせると、関羽に満面の笑みを向ける。内容が内容だけに一刀も唖然とするが、とんでもないことを言い出した劉備に対する動揺は関羽の方が大きかった。
「ぶっ!」
茶を飲み始めていたために、関羽は思いっきり吹き出し、むせている。
「げほっ、げほっ、な、なにを言い出すのですか!」
「え〜、せっかく変わってあげるって言ってるのに……」
劉備は唇をあひるのように尖らせると、不満気な声で文句を言う。
「別に変わっていただかなくて結構!」
そう強めに断言すると、関羽はぷいっと顔を背けてしまった。その反応を見た劉備が急に一刀の胸に顔を預けてくる。ぷにぷにとした柔らかい頬が一刀の胸に触れて形を変えている。
「それじゃあ、わたしと鈴々ちゃんで独占しちゃおうっかなぁ〜」
そんな劉備の行動と言葉に、関羽が視線だけ一刀と劉備の方へ向ける。
「……俺の意志は?」
取りあえず、様子を伺うと言うよりも睨みつけていると言っていいほどきつい視線を刺すように向けてくる関羽に冷や汗をかきつつ、劉備にそう訊ねる。
「今日くらいは我慢してもらえないかな?」
そう答える劉備の方を向いて「おいおい」と言おうと口を開きかけた一刀の瞳に、先程までの明るさなどなく、どこか切なさを感じさせる表情をする劉備の顔が映った。
その姿に呆然としている一刀に張飛が声をかけてくる。
「鈴々もこのままがいいのだ!」
「はぁ……わかった。いいよ、このままでも。餞別代わりとしては物足りないかも知れないけど、今日は三人の望みに出来る限り応えるよ」
一刀としても三人と過ごせるこの一日を大事にしたいとは思っていたのだ。だからこそ不満など無いことを表すように笑顔でそう告げてみせた。
一刀は自分の言葉を聞いて嬉しそうに微笑む少女たちの視がむずがゆかった。だから彼女たちから目を逸らしつつ口を開いた。
「まぁ、今は取りあえず肉まんを食べよう!」
「それもそうだね」
「まぁ……そうですね。速くしないと鈴々に全て食べられてしまいますからね」
そう答えて、劉備とむすっとしていた関羽が笑った。
その後は、四人で談笑しながら食事をした。
食事の後は、腹ごなしの意味も込めて鍛錬をすることになった。
最初は、一刀の鍛錬だった。相手がいると想定しての動きの練習。劉備たちは一刀が動くの見ていた。時折、関羽から助言を受ける。それを何度か行ったところで一刀の鍛錬は終了となった。
次に行ったのは、関羽と張飛の手合わせだった。劉備と一刀はその見学をするため近くに座っていた。
「今日は鈴々が圧勝するのだ!」
そう言うと、張飛が蛇矛を構える。
「ふっ、それはどうだろうな。勝敗は決するまではわからぬぞ」
青龍偃月刀を構えながら、関羽が不適な笑みを浮かべる。
そして、互いに一言も喋らなくなる。見ている一刀たちもその緊張感が伝わってくるため言葉を発することが出来ない。
それからしばらく二人は動かない。ただ、相手を見据え続けている。いや、よく見れば前に出した足をするようにして、じりじりと距離を詰め合っている。そして、その距離がついには矛の先が触れ合うという位置に達する瞬間、二人は同時に動いた。
張飛が距離を詰めるように突っ込む。それに対して、関羽は後退しつつ最小限の動きでそれをよけつつ、視界にとらえたままの張飛に向けて上段から青龍偃月刀を勢いよく振り下ろす。
「はぁっ!」
「っ!? おっとと……」
振り下ろされた一撃を張飛は柄の部分で受けとめ、そのまま逆に力で押し返す。
「くっ!」
関羽は、その勢いを逆に利用することで背後に飛び、距離を取る。だが張飛も逃がさないとばかりに距離を詰める。
「はぁっ!」
勢いよく飛び掛かってくる張飛の一撃に、後方へ跳んでいる関羽の体勢が崩れる。それを好機と見た張飛が、関羽へ突きを放つ。
「もらったのだ!」
その瞬間、関羽の瞳がきらりと光る。
「甘い!!」
関羽はそう叫ぶと、躰を伏せることで張飛の突きをかいくぐり、横からの振り抜くような一撃を張飛の脇腹へと決める。
「ぐっ、しまったのだ……」
そこで、手合わせは終わった。一本を決められた張飛が、苦々し気にそう呟きながらその場に座り込んだ。
関羽がそんな妹に笑みを浮かべながら歩み寄る。
「ふふっ、今回は私の勝ちだな」
「う〜悔しいのだ」
そう言い放つ張飛は本当に悔しそうだった。
その様子に苦笑しつつ、一刀は言葉を交わしている二人を見つめる。
「まぁ、今回は愛紗のほうが一枚上手だったってことかな」
「へぇ、そうなの? なんだかすごすぎてわたしはついていけなかったよ……えへへ」
隣に座っている劉備は、そう言うと恥ずかしそうに頬を朱に染めてはにかんだ。そんな彼女に一刀が頬を綻ばせていると声がかかる。
「ほぉ、今のやり取りがおわかりですかな?」
「まぁ、なんとか動きは認識できるってだけで、対応はできないけどな…………へ?」
今まで人がいなかったところから声が聞こえた気がして一刀は勢いよく後ろを振り返る。すると、そこには一刀たちと同じように座っている趙雲がいた。
「せ、星!?」
「えぇ!?」
一刀と劉備は驚きのあまり、声を上げてしまった。そんな二人の方へ歩いてくる関羽が方を竦めつつため息を吐いた。
「まったく、お二方は驚きすぎですよ」
「気づいてたのか?」
一刀がそう訊ねると、関羽の横にいる張飛が笑顔を浮かべる。
「もちろんなのだ!」
「武を志す者、それくらいは出来て当たり前です」
その言葉を聞いて、一刀は改めて彼女たちの凄さというものを感じさせられた。
「ところで、どうしたんだ? 星」
本来、仕事をしているはずの趙雲がこの場にいることに対して一刀は彼女の姿を見た時点で疑問を抱いていた。
「いえ、休憩に入ったので秘蔵のメンマを取りに貯蔵庫へ向かう途中だったのですが、なにやら面白そうなことが行われていましたのでな。少々、足を止めた次第ですよ」
そう言うと、趙雲は腰を上げ、立ち上がる。そして、そのまま「では」とだけ告げて歩き出そうとする。そこへ関羽が声をかける。
「おや、もう行かれるのか?」
「私としても愛紗たちと過ごしたいとは思うのだが、なにしろ仕事がこの後もあるのでな。済まぬが私はここで去らせて頂く」
「そうか、ならば引きとめるわけにもいかぬな」
「では、失礼」
そう言って貯蔵庫へ向かう趙雲の背を見送ると、四人はそれからしばらくの間、鍛錬の余韻に浸ることにした。
鍛錬の後をまったりと過ごした四人はその後、昼食を取り、まったりと食後のお茶を満喫していた。
「ふぅっ、落ち着きますね」
お茶を一口呑み、関羽はほっと一息つきながら感想を漏らす。劉備もまた、落ち着いた様子でそれに答える。
「そうだねぇ〜」
「なんだかまったりしてるな」
一刀は二人の様子を見ながらそう漏らした。それに対して、関羽がほのぼのとした顔のまま口を開く。
「まぁ、これから再び忙しくなりますし……今日は英気を養うと言うことで」
「そうそう、準備はもう整ったから後は躰を休めるようにって白蓮ちゃんが一日空けてくれたわけなんだしね」
劉備も関羽同様、ほわほわっとした表情をしている。
「まぁ、それもそうだな……」
そう言いながら一刀は左右の手を動かす。別にやらしいことはしていない。ただ肩に寄りかかっている二人の頭を撫でているだけだ。
頭を撫でながら、こうなるまでの経緯を思い出しかけるが頭を振ってすぐに追い出す。 ただ、一つ言えるのは関羽の頑固さと堅さは筋金入りだったということだ。また、そんな関羽を押し切ってこの状態にした劉備に対しても一刀は驚異を覚えていた。
そして、一刀も朝交わした約束もあるため断るに断れず、結局今までこの状態のままだったのだ。
ちなみに、まったく会話に参加していない張飛は、昼食を食べて満腹になったためか睡魔に襲われ、眠りについていた。
「だけど、こうやっていると一刀さんと明日、お別れするのが寂しくなっちゃうかな」
劉備の様子を見る限り本当に寂しいのだろう。一刀にはそれがよくわかる。一刀もまた三人との別れを寂しく感じているのだから……。
そんなことを一刀が思っていると、関羽もまたどこか寂しそうな様子を見せる。
「そうですね。星ではありませんが、一刀殿はなかなか面白い方ですから……それに……」
「ん?」
「いえ、なんでもありません。きっと……一刀殿と別れることを一番寂しく思っているのは鈴々でしょう」
一刀に聞き返されるのに対して伏し目がちに首を振ると、関羽はそのまま寝ている張飛へと視線を向けた。
それに合わせるように一刀と劉備も張飛へと視線を向ける。
「そうだね……一刀さんのことをすごく気に入っていたもんね」
「えぇ、元々人懐っこい性格をしていますが、一刀殿へは特に懐いていましたからね」
「にゃ〜もう食べられないのだ……むにゃ」
張飛らしい寝言に顔を見合わせると、三人は吹き出した。
笑顔を残したまま、一刀は張飛の愛らしい寝顔を見つめながら呟く。
「だけど、ほんと鈴々は強い娘だよな……」
「え?」
一刀の言葉に対して劉備が上げた声を耳にした。ちらりと視線をそちらに向けると劉備もまた、張飛を大切なものを愛しそうに見つめている。それを見ながら、もしかしたら自分もそうなのだろうかと思い可笑しくなる。
一刀は、口角が上がるのを感じながら口を開いた。
「なんて言うかさ……こんな時代で、しかも凄惨な光景を何度も見てきているのに弱音一つ言わず頑張ってる。その上、いつも笑顔を振りまいて周りの人たちに元気を分け与えてくれる。本当に強いよな……鈴々は」
「そうだね、暗い表情なんて全然見せないもんね」
劉備が一刀の元を離れて張飛の隣に移り、眠っている彼女の頭を撫でる。
「そうですね、鈴々は鈴々なりに頑張っていると思います。面と向かってはあまり褒めてやってはいませんが」
そう言って、関羽も劉備の反対側へと腰を下ろして張飛の頭を慈しむように撫でる。
「ふふ……こんなに気持ちよさそうな顔をして」
張飛を見る関羽の顔は、優しさに満ちあふれていて姉のような母のような――むしろ保護者的な立場にある人の――顔をしている。
そんな関羽と同じように微笑を湛えた顔で劉備が穏やかな口調でぽつりと呟いた。
「いつかは、こんな落ち着いた時間をたくさん過ごさせてあげたいね」
三人で並ぶ姿は本当に微笑ましい。この三人が、明日にはここから旅立ってしまうと思った瞬間、一刀の胸に寂しさが去来してきた。
それから劉備たちと共に穏やかな時間を過ごした一刀は、公孫賛の呼び出しに応じて彼女たちと共に城門前へと赴いた。そこには、呼び出した本人である公孫賛と趙雲がいた。
「おぉ、来たか。すまないな四人とも」
一刀たちの姿を見つけた公孫賛たちが近づいていく。一刀たちも公孫賛たちの方へと歩み寄る。そして、一刀は呼び出されたわけを聞くために口を開いた。
「あぁ、別に構わないけど。何の用なんだ?」
「いえ、共に夕食でもということですよ」
一刀の質問には、公孫賛の傍らに控えていた趙雲が答えた。
「なるほど、俺は別に構わないけど……」
そう答えつつ、一刀は劉備たちの方を伺う。
「わたしたちも構わないよ」
劉備だけでなく他の二人も了承の意を示すように頷く。
「それじゃあ、行くか」
全員の了解をえたところで公孫賛が先頭を歩き始める。それに遅れないよう各人後について行く。
歩いている途中、先頭をご機嫌な様子で歩いている公孫賛を見ていつも通りの口端を上げた表情を浮かべている趙雲が隣を歩く一刀へ話しかける。
「主、今日は良き日となりましたかな?」
「あぁ……三人と一緒に十分一日を堪能したよ」
「そうですか。それはよかったですな」
「だけど、なんだか短かった気がするよ……三人が来てから今日までの日々があっという間に感じるくらいにはな」
劉備たち三人との出会いから過ごした日々、それは一刀にどこか懐かしさを感じさせていた。
中でも、関羽、張飛、趙雲という三人が揃っていることが一刀の中では大きかった。まるで、前の"外史"での生活が戻ってきたかのように錯覚しかけたくらいだった。
そして、劉備という新たな人物が加わったことが新たな刺激となり一刀に一層日々の楽しさを提供してくれていた。
そんなことを思いながら劉備たちの方を一刀は見やった。隣の趙雲がその視線を追うように三人の方に顔を向けた。
「そうですな……色々ありましたが、なかなかに愉快な日々でしたな……」
「きっと街の人たちも寂しがるだろうな」
「しかし、それもまた詮無きこと。桃香殿たちには彼女たちなりの道があるのですから」
「あぁ……そうだな」
趙雲の言葉を聞いて一刀は思う。自分は一体どんな道を進むのだろうか……それ以前にどの道を選ぶのか、それはまだわからない。
(でも、これから起こりうる出来事に対しては気を張っておくべきか……)
「さぁ、ついたぞ」
公孫賛のその声で一刀は思考を打ち切った。
「ここで食事をとるぞ」
そう言って公孫賛が示す方を見る、一軒の酒屋だった。結構評判の良い店であることを一刀は耳にしたことがあった。そして、その人気の程を証明するように店は客でごった返している。どの席からも楽しそうに談笑する声が聞こえてくる。
そんな賑やかな雰囲気の中を進んでいき席に着くと、すぐに注文をした。
すると、すぐに店員が一刀たちの元へとやってくる。そして、店員は席に酒瓶を置いて公孫賛の方を見る。
「どうぞ、お預かりになっていたものです」
「あぁ、すまないな」
それを受け取りながら公孫賛が礼を言う。どうやら、公孫賛が前に預けていたものらしかった。
それから、少し経つと酒瓶に続くように料理が運ばれてくる。
「うわぁ、たくさん来たけど……」
劉備が運ばれてくる料理に目を見張りながら呟いた。そんな彼女に公孫賛が微笑を浮かべる。
「ふふ、今日は私の奢りだから気にするな」
公孫賛がそう言うと料理が次々と運ばれてきた料理、その数は大量とは言わないまでも、それなりにはある。それを見た関羽は公孫賛に遠慮気味に訊ねる。
「しかし、よろしいのですか?」
「あぁ、三人の門出がうまくいってほしいからな。しっかり食べて、英気を養ってくれよ。さぁ、遠慮無く食べてくれ」
公孫賛の言葉が終わるやいなや張飛が目を輝かせる。それを見つつ公孫賛は苦笑ながら付け加える。
「まぁ、そうは言っても、たいして豪勢なことは出来ないがな」
公孫賛はそう言うが、現在の大陸の情況を考えれば卓に並ぶ料理の数々は十分豪勢と言えるだろう。そして、そんな料理たちを見つめる張飛の口からだらだらと涎が滴っている。
「ごくっ、それにしても、美味しそうなのだ」
「ふふ、食べろ食べろ。速く食べないと冷めてしまうぞ」
箸が動かない劉備たちを公孫賛が促す。
「それじゃあ、遠慮無く」
「ご馳走になります」
「いただきますなのだ!」
二人の言葉に会わせて真っ先に箸を伸ばす張飛。彼女を切欠に各自、食事を取り始める。
「さて、私はこちらを頂くとしましょう」
そう言って趙雲は、先程の酒瓶から酒を杯に注ぎ呑む。
「ほぅ、なかなか良い酒ですな。白蓮殿」
「そうか? 私はそこまで飲まないからよくはわからないのだが……」
趙雲が酒に対する褒め言葉を口にするが、公孫賛にはいまいちピンときていないらしく首を捻っている。
「白蓮殿も口にしてみればおわかりになりますよ」
「いや、今日は三人を送るための食事会だからな、私は遠慮しておく」
公孫賛がそう告げて、趙雲が酒瓶を取ろうとするのを制すると、趙雲は酒瓶を持って関羽へと勧める。
「愛紗よ、一杯どうだ?」
「ふむ、まぁ明日は速いからな、一杯だけ頂こう」
趙雲の方へ寄せた関羽の杯に酒がとくとくと注がれる。そして、それを目で楽しむと関羽は酒を一口で呑み干した。
「うむ、確かにこれは美味いな」
どうやら、本当に美味い酒らしく、頬を朱に染めながら関羽がにこりと微笑んだ。そこへ劉備と張飛が目を輝かせながら声をかける。
「あーわたしにもちょうだい」
「鈴々も飲みたいのだ」
「だめですよ。二人とも」
そう言われ不満を露わにする劉備と張飛。そんな二人に関羽が言い聞かせるようにしっかりと言葉を告げていく。
「二人の場合、飲んだりしたら、明日に支障をきたしてしまうではありませんか」
どこか不満そうではありながらも劉備たちは引き下がった。何か身に覚えでもあるのだろうか、などと三人の様子を眺めながら一刀が考えていると、趙雲から杯が手渡される。
「さ、一刀殿も一杯呑まれてはいかがですかな」
「ん?それじゃあ、一杯だけいただこうかな」
勧められるままに一刀は呑んでみる。確かに、二人が称賛するだけあって他とは違う味わいがあった。
一刀が酒の余韻に浸ってるそばで杯が空になった関羽に趙雲がもう一杯と酒を勧める。「愛紗よ、もう一杯いくか?」
「いや、一杯でやめさせて頂こう。二人の視線がきついのでな」
関羽がそう言っている間も酒をお預けされた二人の突き刺すような視線が彼女に向けられている。その様子に肩を竦めると、趙雲も酒を勧めるのをやめて自分の杯を置いた。
「ふ、違いないな」
主賓側がである関羽が呑むのを止めたため、一刀も一杯でやめておくことにした。趙雲も杯を置いたのを見る限り止めるようだ。それでも顔には名残惜しさが浮かんでいる。
そんな表情を見て苦笑を漏らしつつ、関羽が口を開く。
「ふふ、この続きは再び、ゆっくりと呑む機会があったときにさせていただこう」
そう言いながら関羽は、空になった杯の縁に指を這わせる。その動きを視線で追いながら趙雲が口を開く。
「うむ、それもよいだろう」
「それならさ、ここで約束をしておかないか? また、こうやって集まって呑もうってさ」
「そうですね、それはよいと思います。ぜひとも、約束をしましょう」
二人の会話に参加しつつ一刀が口にした言葉に関羽が頷いた。趙雲も一刀たちの話を聞きながら頷いている。
「うむ、確かによいですな。そうすれば、約束を守るためにも各々、達者でいるようにと一層、気を遣うようになりますからな」
「今度のときはわたしも混ぜてもらいたいな」
「鈴々もなのだ!」
そう言って、劉備と張飛が満開の笑顔で話に加わってくる。
「まぁ、それもよいでしょう」
今度は、関羽も二人を咎めるような真似をしない。おそらくはこの話の重点を理解しているのだろう。
そうして、五人は空になった杯を持ち、胸の前に掲げる。
「それじゃあ、約束といこうか」
一刀の言葉に会わせ、空の杯を持った腕を上げようとすると、慌てたように公孫賛が声をかけてくる。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 私も加えてくれ!」
今まで妙にそわそわと落ち着かない様子で成り行きを見守っていた公孫賛が、慌てて加わってくる。その様に苦笑しつつ、彼女が用意するのを待ってから一刀は口を開いた。
「それじゃあ、いつか、この空の杯に酒を注ぎ、呑もう!」
「応っ!」
六つの杯が中央でぶつかり合い小気味よい音を辺りに響かせた。
『これから、色々あるかもしれない。だけど、必ず生きて会おう!』
口にこそしなかったが、一刀は心の中でそう叫んだ。そして、それはきっとこの場にいる誰もが抱いているのだろうとも思った。
そう、きっとこの約束に込められたこの想いのためにも、約束を交わした全員がそれぞれ精一杯生き抜いていくための努力をしていくことになるだろう。
その後は何事もなく穏やかに食事会は続いた。
食事を終えたときに、大分時間も経っていたため城に戻るとすぐに解散し、一刀は真っ直ぐ自室へと戻った。
一刀は、部屋に入るとすぐに寝る準備を済ませた。翌日は劉備たちの見送りをする気でいるためいつもより速く起きる予定なのだ。
そして、いざ寝ようと寝台へと向かおうとしたとき、扉が控えめに叩かれる音が一刀の耳へと入ってくる。どうやら誰かが来たらしい。
「ん? 何のようだろ」
そう思いつつ扉を開けると、そこには張飛が立っていた。
「鈴々か、どうしたんだ?」
「えっと、その……鈴々と一緒に寝てほしいのだ」
張飛がちらちらと一刀の顔を伺う。二人の身長差もあって見事なまでに上目遣いとなっており、恥ずかしさによってか頬も朱に染まっていてそれがかわいらしく思えた。
普段あまり見ることのない張飛のすがたに頬を綻ばせつつ一刀は張飛を招き入れる。
「あぁ、別に構わないよ。一緒に寝ようか」
「やったのだ!」
張飛が嬉しそうにその場で跳ねると、一刀の好きな太陽のような明るい笑顔を見せてくれた。そして、喜びを全体で表したまま寝台へと駆け寄ると、思いっきり飛び込んだ。
「明日は速いんだろ? さっさと寝よう」
「うん、そう……するの……だぁ……」
寝台についたかと思うやいなや張飛は眠ってしまった。その姿を見ながら一刀はあくびを噛み殺した。
「ふぁぁ。はは、もう寝たのか……さて、俺も寝るとするかな」
寝台に飛び込んだときの体勢のまま寝息を立てている張飛の態勢を直したり、毛布を掛けたりと、彼女をちゃんと寝かせる。
そして、一刀もその横へと寝転がった。
瞼を閉じると、何故か懐かしい思い出が蘇る。隣でかわいらしい寝息をたて控えめな胸を上下させている女の子。彼女と……いや、張飛とどう存在であった女の子……あえて言えばもう一人の"鈴々"。彼女は、前の"外史"で戦乱を共に乗り越え日常に明るさを注いでくれた……そして、それは今の張飛も同じだった。
(よかったよ……鈴々が変わってなくて)
そう思い微笑んだはずが頬を濡らしながら何かが寝台へと落ちたのを感じた。
「え? なんで俺……涙なんか流してるんだ……」
自覚のない症状に一刀が驚いていると、扉が控えめに叩かれる音がした。一体今度は誰だろうかと思いながら寝台を出る。
そして、扉を開けながら訪問者へ声をかける。
「はいはい、どちら様ですか?」
「寝るところだったとは思うんだけど、ごめんね」
「申し訳ありません、少々お聞きしたいことがありまして」
そこにいたのは、劉備と関羽の二人だった。どこか不安気な表情を浮かべている。
それを気にしつつ、一刀は取りあえず用件を訊ねる。
「ん? どうした?」
「あのね……一緒に居たはずの鈴々ちゃんがいつの間にかいなくなってて……」
「もしかしたら、一刀殿のところにお邪魔しているのではないかと思いまして、少々、訊ねに参りました」
劉備たちの様子を見て、一刀は張飛が二人に無断で部屋を出てきたことを察した。そして、いなくなったことを心配している二人を安心させるために寝台で熟睡している張飛の方を仰ぎ、二人にも見るようにと促す。
「あぁ、それなら、ほら」
「あっ! いた……」
「一刀殿の部屋で寝ていたとは……」
張飛の姿を見つけた二人は、寝ていることに気づき、先程より声を抑え目にする。
「すぐに、連れて戻りますので」
関羽が寝台へと歩み寄り、張飛を抱えようとする。そのまま関羽が張飛の躰を覆っている毛布をまくろうとしたところで一刀が毛布を掴む関羽の手にそっと自分の掌を重ねて待ったをかけた。
「待ってくれ、愛紗」
「どうかなされましたか?」
一刀に手を重ねられた瞬間に全身をぴくりと震わせて、毛布を手放した状態のまま関羽は振り返った。
「運ぶ途中で起こしちゃったら可愛想だし、寝かしたままにしておいてあげないか?」
「よろしいのですか?」
「あぁ、俺は構わないよ」
「そうですか……」
まだ納得がいっていないのか、関羽は渋い顔をしている。そんな彼女を劉備が諭す。
「ねぇ、愛紗ちゃん。一刀さんもこう言ってくれてることだしさ、このままにさせてもらおうよ」
「はぁ……そうですね。確かに何かの拍子に起こしてしまうような事があったら、鈴々に悪いですからね」
ようやく関羽も納得したらしく肩を竦めながら苦笑を浮かべた。こうして、張飛の眠りは妨げられずにすんだ。
ようやく、一段落ついたところで劉備が何か良いことを思いついたと言わんばかりの笑顔で口を開いた。
「そうだ、わたしたちもここで寝かせてもらおうよ」
「えっ!?」関羽と一刀が驚きを同時に声に出す。
突拍子もない話に、顔を赤くして抗議を始める関羽。彼女は感情を余程高ぶらせているのだろう、関羽は劉備の両肩をしっかと掴んで真正面から見つめ合っている。
「な、なにを仰っているんですか? 桃香様」
「そ、そうだぞ、なんで急に」
劉備は、突然の関羽の行動に気を抜かれていたようだったが、すぐに我に返り普段の表情で一刀たちの反応を受け流した。
そして、二人の抗議の声を特に気にした風でもなく、劉備はただ口元に笑みを纏った。
「鈴々ちゃんを見てたらね、わたしもここで……一刀さんと一緒に寝たいなって思ったの」
「し、しかしですね桃香様、鈴々はまだいいとしても我々はさすがに……」
関羽としては、あまりこういったことはしたくはないのだろう。なかなか良い返事は返さすこともなく、劉備を両手から解放して顔を俯かせてしまった。
「でも、どうせなら一日の終わりまで思い出を残しておきたいの」
普段の劉備と比べると、どこか決意じみた強めな口調になっている。しかも、いつもなら関羽の咎めに従うことが多いのに今回に限っては食らいついている。
さすがに関羽も、そんな理由を聞かされてしまっては断りの言葉を口にするのを躊躇ってしまうらしい。
「桃香様……そ、そのぉ……」
「え、えっと……それじゃあ、いっそ桃香だけここで寝るか?」
人差し指を突き合いながら口をもごもごさせたまま困惑の表情を浮かべている関羽に視線で話を振られた一刀は妥協案を出した。
「う〜ん、わたしとしては愛紗ちゃんも一緒がいいんだけどなぁ……」
劉備が悩み始める。すると関羽ががっくりと肩を落としてため息を吐いた。
「……わかりました。一刀殿がよろしければ私も共にお邪魔することにしましょう」
関羽はそう告げると、未だに朱に染まっている顔に疲れた表情を貼り付け、全ての審判を委ねるように一刀へ視線を向けた。
「まぁ、俺は別に構わないけど、はっきり言って狭いと思うぞ」
一応、入れる空間はあるだろうとは一刀も思うのだが、それだと一人一人の範囲が狭くなりすぎてしまうだろう。
「それくらい、平気だよ。ね、愛紗ちゃん」
「え、えぇ。そうですね……」
笑顔で訊いてくる劉備に半ば投げやりになっている関羽が適当に相づちを打った。
「それから、狭いからって明日に疲れを残すなよ」
これは、なによりも大事なことだ。一刀としても、劉備たちにここで寝たせいで翌日の出立に支障をきたされても困るのだ。
「うん、大丈夫だよ」
「なら、いいよ。おいで二人とも」
迷いのない劉備の答えを聞いて、先に床についた一刀が二人を中へと促す。
「ありがとう。一刀さん」
「ありがとうございます。一刀殿」
そう告げると、二人は一緒に寝台へと潜り込んでいく。そして、張飛を含めて四人が同じ寝台の上で寝ることとなった。
先に一刀が言ったとおり、一人一人の空間などなくほぼ密着状態となっていた。
「本当にありがとう。一刀さん」
劉備は、柔らかな声でそう告げると一刀の胸に手を乗せた。
「鈴々だけでなく、我々までご一緒させて頂いてすみません」
今度は関羽が申し訳なさそうで、それでいてどこか嬉しそうな声でそう告げる。そしてその腕を張飛越しに一刀の胸に乗せた。
二人の手の温もりを感じて心臓の鼓動が速くなる。もしかしたら大きくなった鼓動の音が二つの掌を通して彼女たちに伝わってしまうかも知れない、などと考えながら一刀は口を開く。
「いいよ、気にしないでくれ二人とも。今日は三人の望みを出来るだけ叶えるって、約束しただろ。それにさ……正直俺としては、かわいい女の子たちと一緒に寝れて得だなぁ、なんて思ってるんだよな。はは」
「それもそっか。ふふ」
「…………っ」
明かりが消え、暗闇に支配された空間の中なのだが、劉備が笑っているのが一刀には気配でわかった。もちろん、反対側で照れているであろう関羽の息を呑む音も聞き逃してはいなかった。
それから三人で他愛もない話をした。そのうちに三人とも徐々に口数が減っていき、誰からともなく自然と口を閉ざした。一刀が意識を闇に委ねたのは、室内は静寂に包まれていってからすぐだった。
翌朝、一刀は、劉備たちを見送るため城門へと赴いていた。
最後の別れを惜しむような暗い空気などはなく、誰しもが笑顔を浮かべていた。
そして、一刀たちの代表でもある公孫賛が友であり、義勇軍の代表でもある劉備と握手をする。
「それじゃあ、達者でな」
「うん、白蓮ちゃんもお元気で」
二人が、挨拶を交わし合ったのを見計らって趙雲が前へと進み出る。その手に一つの壺を持っている。
「こちらをお三方へ差し上げます」
「星、これは?」
趙雲の手から一つの壺が受け取りながら関羽が訊ねる。
「この趙子龍秘蔵のメンマを、私自身で味付けしたものだ。味の方は保証いたすぞ」
そう告げて趙雲が胸を張って自信の程を表現する。
「ありがとう、星ちゃん。そっか……昨日、貯蔵庫にメンマを取りに行ったのはこのためだったんだね」
「えぇ、メンマの味付けを行うためだったのですよ」
「すぐに食さず、貯蔵庫に保存していたような大事なものを……星よ、かたじけない」
「なに、気にするな。離れていようと我らは盟友なのだろ?」
「ふ、そうだな」
互いに不適な笑みを浮かべながら、趙雲と関羽は握手を交わした。
(盟友……か。いや、やっぱり二人はこうであるべきだろうな)
二人の握手を見て一刀が感慨にふけっていると、張飛が近づいてくる。
「お兄ちゃん」
「どうした鈴々?」
「鈴々たちも握手しようなのだ」
それぞれが握手をしていたのを見て羨ましかったのかそう申し出てきた。一刀は笑顔を浮かべながら手を差し出す。
「わかった。元気でな、鈴々!」
「うん! お兄ちゃんに鈴々の笑顔が好きって言ってもらったから、元気いっぱい、笑顔たくさんで頑張るのだ!」
満面の笑みを浮かべながら張飛は一刀の手を握り返した。
その後、結局は全員で握手を交わした。
そして、義勇軍の準備が整ったという報告を受けたところで劉備たちとの別れとなった。
「それじゃあ、本当にありがとう。白蓮ちゃん、星ちゃん。それと一刀さん」
そう言って頭を下げる劉備。愛紗と鈴々もそれに会わせ頭を下げる。三人が頭を上げたところで今度は公孫賛が礼を告げる。
「こちらこそ、世話になったな。桃香、愛紗、鈴々、本当に色々と助かったよ。三人ともありがとう」
公孫賛が先程の劉備のように頭を下げた。それに会わせて一刀と趙雲も下げる。
そうして最後の会話を交わすと、劉備たちは義勇軍の元へと向かって歩き始める。
その後ろ姿を見送っていると、三人が振り返り、一刀たちへ手を振った。一刀たちもそれに応えるように手を振り替えした。
「三人とも、元気でなー!」
聞こえるかはわからない。それでも一刀は叫んだ。腕を一生懸命振った。
それは届いたようで、劉備たちもそれに返してくれた。
「じゃあね〜!」
それを最後に、劉備たちは振り返ることなく前を向いたまま義勇軍と共に進んでいった。
それを見送りながら一刀はあることを考えていた。
(桃香に言った『強い芯』……この世界に来てからの俺は持てているのだろうか……)
なんだか不安に駆られ一刀は胸の前で拳を握りしめた。
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